薬物依存の人とご家族とのかかわりから学んだこと

薬物依存の人とご家族とのかかわりから学んだこと:DARCマニア21年目の総括

fp16

ニューズレターに原稿を書く機会をいただきありがとうございます。自称DARCマニアの山野です。 何を書こうかと考えを巡らせるうちに、薬物関連問題にかかわるようになって、今年で21年目(人生の半分くらい!)に入っていることにきづきました。そこで、今回はダルク・フリーダムとのかかわりを中心に、これまでの自身の経験と、私の目から薬物関連問題を取り巻く状況について振り返ってみたいと思います。

薬物依存をもつ人との出会いと疑問

生まれて初めて、薬物依存の人と出会ったのは、大学卒業後に勤務した精神科病院でした。 1980年代後半の当時は、薬物使用に伴う精神症状があって精神科を受診された人が、「治療・援助の対象」とみなされ「患者」として当たり前の対応を受ける機会を得ることは、とても難しいことだったように思います。まず多く見られたのは、いわゆるやんわりとした診療拒否。これには「うちは専門治療機関ではないから」という理由から「他の病気で入院されている人に迷惑がかかってはいけないから」、そして中には「(覚せい剤使用の場合に)薬物依存の人は犯罪者でもあるのだから、そんな人は病院で受け入れるべきではない。警察に行ってもらうべき」というような、このニューズレターをご覧の皆さんが今聞いたらびっくりされるような理由もまかり通っていたような状況でした。 私が勤務していた病院は、医療環境の開放化や専門病棟を設けてアルコール依存の治療に積極的に取り組むなど、先進的な気風のあるところでした。就職当時、不勉強だった私は、アルコール依存という疾病とその専門治療プログラムについて、そして治療によって回復が可能であることを教えて頂きました。 しかし、それでも当時は、「薬物依存とアルコール依存は別」といった認識が一般的で、ごくたまに入院してこられる薬物依存の患者さんは一般精神科の病棟に割り振られていました。また、女性のアルコール依存の方も同様でした。私は「専門治療があるのなら、もっと多くの人に応用することができればよいのに・・」との思いを強く持つようになりました。そして、古い職員の方から「昔はアルコール依存の人も他の病気の人と一緒に、特にプログラムもなく入院されていた」「当時は、アルコール依存という病気についての理解が職員にもあまりなくて、『勝手に酒飲んで人に迷惑かけて・・』と厄介者扱いするような雰囲気もあった」という話を聞かせて頂くうちに、状況は変化する可能性があると思えるようになりました。
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    • 回復者との出会いと希望

      薬物依存の人のために「何とかしたい、何とかしなければ、でも何からどうしていけばいいのかわからない・・・」という思いの中で、当時心の支えになったのは、DSM-III-R(精神障害の診断・統計マニュアル:現在はDSM-IV-TR)という本でした。この本は米国精神医学会が出しているもので、全ての精神障害を分類して、その特徴や診断基準等を記述したものです。この書物の中で、薬物依存はアルコール依存と同じ大きな分類の中に置かれていて、しかも統合失調症と同様に数十ページにわたって記述されているのです。これほど明快に「薬物依存は病気」という位置づけを実感できるものはありません。WHOによるIDC-10(国際疾病分類)における記述も同様でした。 「薬物依存の人が治療や援助をもっとうけやすくなるといいですよね」という話を分かち合える人を見つけることは難しく、切り出す相手を間違えてしまうと、薬物依存の人が「いかに危険で、対応が困難で、回復の見込みのない人々か」ということを延々と説明されたり、果ては「あんたは犯罪者の肩をもつのか」と非難されることも少なくありませんでした。当時は自分も若かったこともあり、こうした状況で「でもDSMには・・・」と説明する度胸もなく、<病気なのに治療・援助を受けるという当たり前の権利が守られていないのはおかしい>という思いばかりが胸に渦巻いていました。 こうした日々の中で、大きな転機になったのは、回復した方達との出会いでした。ある男性の薬物依存の入院患者さんを担当した私は、職場の先輩に教えてもらったNA(Narcotics Anonymous:通称エヌエー)という自助グループに彼と一緒に参加することになりました。 恥ずかしながら、参加する前の私は、「使ってる最中の人は来たりしないのかなぁ・・。良いお客さんばかりが集まっていると思って、売人が集まってきたりしないのかなぁ・・。」といったようなことを考えていました。そして「本人だけで集まることがどんな効果があるのかなぁ・・・。だって、医師も心理カウンセラーもソーシャルワーカーもいないんでしょ・・・・」ということも。今考えるとなんと不勉強で、そしてなんと傲慢な考えだろうと思います。NAに参加するまでの私は、<専門家には及ばない当事者どうしの分かち合いの中にだけ生まれる力>の存在を単なる知識としてのレベルでは知っていたのかもしれませんが、おそらく信じていなかったのだろうと思います。 この初めての参加の日、ご一緒した患者さんが発言されなかったことを覚えています。そして、一度にたくさんの薬物依存の人とお会いしたのは初めてでしたが、みなさん物静かで「なんだ、みんなふつうの人じゃない」という思いもありました。病気なのだから治療・援助をもっと積極的に提供すべきだなどと考えている一方で、まだまだ私の頭の中は理屈先行だったのでしょう、薬物依存の人は「一目でそれとわかるすごい人たち」という勝手な先入観があったのだと思います。(ほんと、失礼ですみません。何がどうすごいと思っていたのか言語化しようとしてもできません。偏見とは恐ろしいものです。まったく根拠のないイメージなのです) この参加がきっかけとなり、NAメンバーのみなさんとおつきあいさせて頂くようになりました。ちょうど年齢が近かったこともあり、時には食事やカラオケにご一緒させて頂いたり、ある時には結婚式に招待して頂いたり・・・。ミーティングの時の話を聞いていなければ、みんなが薬物依存という病気をもっていることを忘れそうでした。こうしたおつきあいを通して、<薬物依存は回復できる病気>ということを私は信じ始めたように思います。

      大阪DARCの誕生とご家族との出会い

      ごく一部の医療機関を除けば、保健・医療領域において、遅々として薬物依存の人に対する治療・援助の提供が進まない中、1985年に東京で最初に開設されたリハビリ施設DARCの存在はとても輝いて見えました。治療・援助者があまり頼りにならない中、まず自分たちで何とかしてみようというのです。とにかく一緒に過ごす。ルールは1日3回ミーティングに参加することだけ。シンプルな施設です。1989年に東京ダルクに見学に行き、まずこの度胸に感服しました。援助者は(もしかしたら私だけなのかもしれませんが)、援助の効果や最近だったら費用対効果やなんかが気になって、「まず先に専門的な知識や技術を身につけてから」何かを始めようとしがちです。でも、DARCの<とにかくやりはじめる>というスタイルのシンプルな力強さにとても心を揺さぶられました。たぶん・・・これがダルクマニアの始まりですね。 1992年には、ダルク熱が高じて、横浜ダルクで朝から夜のNA参加までフル参加の<ダルクで1ヶ月生活>を体験させて頂きました(少し自慢です)。 1993年に、大阪に日本で4番目のダルクができることになったのはとてもうれしいことでした。そして大阪ダルク開設がきっかけとなって、新たなそして数多くの出会いの機会を頂くことになりました。それは、ダルク開設の告知と同時に公開された電話番号に殺到した、家族からの相談への対応を手伝ってほしいとのスタッフからの依頼でした。当時ちょうど病院を離れて学生に戻っていた私は、時間の余裕だけはありましたので、ダルクを応援できることがうれしくて二つ返事でお受けしました。 その頃は、薬物依存の人の家族のサポートを提供していたのは、臨床心理士をスタッフに据えて家族のグループワークや個人相談を任せていた東京ダルクと、東京・神奈川の有料の相談機関が2〜3カ所のみでした。現在のように、薬物依存の人の回復支援と家族支援が並行して提供されることが一般的ではなかった時代ですし、定式化した方法が先行例としてあったわけでもありませんので、先に知識や技術で武装(?)して自信をつけてから事に当たりたい私としては不安もありましたが、DARCに学んだ<とにかくまずやりはじめてみる>というスタイルをまねてみようと思い、家族の方と週に1回グループ形式でお会いすることにしました。それまで、薬物依存のご本人のことばかり考えていましたが、ご家族の方にお目にかかって、ご家族にはまた別の深い苦しみがあることを知らされました。 ご自分の育て方が悪かったからだとの強い自責感をお持ちの方が多く、ご近所にも親戚にも必死で隠そうとしてどんどん孤立しておられること。そして、長い間、家族が「助けを必要としている人」として扱われてこなかったために、中には10年以上誰にも言わずに悩みを胸に抱えてきた方がおいでであったり、ご自身が傷ついて疲れ切っているとの感覚が麻痺しておられる方や、助けを求める権利は自分にはないと思いこんでおられる方がおられたりするということを知りました。<薬物依存という病気が家族をこれほどに苦しめるものなのか>ということに大変ショックを受けました。またその苦しみの多くが、薬物依存に対する社会の認識と問題に直面している人々への対応のあり方によるものであるということにも気づかされました。 そして最初に取り組んだのが、ご家族にまず<薬物依存は病気です>ということをしっかり理解して頂くことでした。当時は、「そんな話聞いたこともない」という反応がほとんどで、少しでもわかりやすくとレジュメを作っては加筆修正しました。それは後に、現在Freedomから出して頂いているグリーンの表紙の冊子「薬物依存とは何か」となりました。 家族支援プログラムのグループ開始当初は、正直なところ「大好きなDARCを応援するために、家族への対応をお手伝いしている」という気持ちでしたが、半年もしないうちに、<家族のために家族支援プログラムを実施する必要がある>ことを痛感するようになりました。 先述したように、自信満々でスタートした活動ではありませんでしたが、そんな中なにより私が心強く感じていたのは、ご家族の<復元力>です。最初は、グループに来られても、沈黙の時間が長かったり、話して涙、人の話を聞いて涙という重苦しい雰囲気でしたが、それが少しずつやわらぎ、時に笑いが生まれ、お化粧やお召し物が変わられ・・・、というプロセスを拝見しながら、どんなに傷ついて弱っている方の中にも<復元力>が確かに存在することを信じることができるようになりました。そしてグループ開始から半年後にNar-anonという自助グループをご家族が立ち上げられ、仲間同士の助け合いを始められた時には、本当に頼もしく思いました。そして私自身は少しずつ、<Nar-anonがある状況で、(薬物依存の本人でも家族でもない)ソーシャルワーカーの自分にできること・やるべきこと>を考えるようになりました。 家族支援プログラムは1994年からの4年間は私が仕事で大阪を離れたため、月に1回の開催となりましたが、1998年から再び大阪に戻ることとなりその後概ね月に2回のペースでグループを継続してきました。 なお、この1998年には最初の「薬物乱用防止五か年戦略」が策定され、薬物依存が保健・医療領域で対応されるべき問題であるとの位置づけが明確になり、その内容のいくつかはDARCにとっても家族支援プログラムにとっても追い風になりました。特に各都道府県の精神保健福祉センターによる、薬物依存をもつ人やその家族に対する専門相談や家族教室の実施についての記述が含まれていたことは、家族支援の必要性への関心を一気に高めることにつながったと思います。実際これ以降、家族支援プログラムの進め方についての研修に招いて頂いたり、家族支援プログラムを立ち上げるために当初継続して実施に参加させて頂くという形で、各地の精神保健福祉センターに大阪で始めた家族支援プログラムをお伝えする機会が急増しました。

      変化し続ける家族支援

      家族支援プログラムとしてグループワークを大阪で継続しつつ、求めに応じて各地にそれをお伝えすることを続けるうちに、ご家族の中には、ご自分のためにというよりも、ご本人のためにプログラムに参加されている方、あるいはそのようなご自覚はないまでも、線引きは曖昧になっておられる方がおいでではないかということに気づき始めました。当時の家族支援プログラムの名称は、「大阪DARC(支援センター)家族支援プログラム」だったのですが、この名前が、参加者の方に<保護者会的な印象>を与える部分もあるのではないかと考えるようになりました。 当時はまだFreedomがありませんでしたので、2000年に思い切って、プログラムの名称を新たに現在のDASY(デイジー:Drug Addiction Seminar for You:あなたのための薬物依存対策講座)とさせて頂くようになりました。こうすることによって、ご家族が「ご本人がどのようにクスリを使用されているか」についてのエピソードや、どうしたら本人をDARCに行くようにできるか」などについての質問に、必要以上に時間をお使いになるのを減らすことに役立てられたように思います。 この頃になると、ご家族の自助グループNar-anon(ナラノン)の活動も以前に増して活発化し、さらに私は<自分にできること・やるべきこと>について考えさせられるようになりました。ちょうとその頃、Freedomの倉田めばさんと一緒に始めたのが、「PaPa-Closed(パパクローズド)」というお父さん限定のグループで、これは現在も月に1回続けています。ここでは詳しく紹介しませんが、男性にとってはきっと居心地のよい集まりになっていると思います。お父さん方、ぜひ一度のぞいてみてください。 また最近はFreedomや京都ダルクでも基礎的な家族支援プログラムが提供されているので、これまで少数の人のニーズであるために後回しになりがちだった問題に積極的にお手伝を始めてみたいと思うようになり、昨年からは京都ダルクの加藤武士さんと一緒に「子育てBUZZ(バズ)」という、こどもさんをもつアディクトとそのパートナーのためのグループを始めました。これも例によって、やりながら作っていこうというスタイルです。

      20年前と今

      20年前には、「20年も経てば、日本全国どこに住んでいても精神保健福祉センターか各保健所で、<家族教室>に参加できるようになっていて、私はまた別の問題のお手伝いをしているのかなぁ」なんてことを思っていました。しかし、様々な保健・福祉関連法制度の改変や関連予算をとりまく状況などの影響もあってか、新旧2回の五カ年戦略の策定の割には、地域サービスの向上という点での実感はあまりないような気もします。 ただ、決定的に違うのは、DARCが社会的に広く認知され、高い評価を受けて、いわばブランドになったこと。 「なんだそれ?」「そんなうさんくさいところ」なんて面と向かって言う人は、最近ほとんどいないのではないでしょうか。それに国や自治体からの仕事の委託も増えているそうですし。マニアとしてはうれしい限りです。 ただ、復古主義といわれそうですが、昔のまだ荒削りで「何が出てくるかわからなかった」頃のDARCの良さも懐かしく思います。人と同じで、組織も成熟の過程を辿りながら変化していくものなのですよね。それにもしかしたら、この先、私たちが想像もできないような新しい回復支援の形が登場することもあるのかもしれませんしね。家族支援も同様で、必要に応じて新しい形に変えていくことを大切にし、どんどん役割を手渡していくことが活動自体を活性化させるのかもしれないと思っています。これからも薬物関連問題への取り組みの裾野の方で、自分にできることを続けていきたいと思います。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。 長くなりましたが、最後までお目通し頂いたことに感謝いたします。どこかでお会いすることがあれば、ぜひお声を掛けてください。 * DASY(デイジー) のHPのぞいてみてくださいね。(元気になられた家族の方が制作・管理してくださっています)

ご注意ください

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