「自分がそれほどたいした人間だと思わないことよ」

サンフランシスコの北東、車で一時間ほど離れたコンコードという街に、ホームレス支援を主に行うフェニックスプログラムというNPOがある。

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そこで今春から半年あまりインターンのセラピストとして働いていたころ、ボスのアルマにこう言われた。 薬物依存と精神疾患は、ホームレスを引き起こす二大危険因子だ。米国の研究者らは、この国のホームレス人口の半数は薬物依存の経験者で、3割から4割はアルコールを乱用していると推測している。また、重い精神疾患を持つ人の3分の2が、人生のある段階でホームレスであったか、その危険性にさらされたことがあるとしている。また、重い精神疾患のあるホームレスの半数は、同時に薬物依存の問題も抱えているという推算もある 。

そんなわけで、薬物依存と精神疾患の治療は、米国のホームレス対策の重要な一部を成している。セラピストとしての私の仕事は、彼らを相手に、主にグループセラピーを行うことだった。コンコードとその周辺の三ヶ所に散らばるホームレス支援センターに日替わりで行き、そこにシャワーや洗濯、昼食などのサービスを受けにくるホームレスたちに、薬物依存と精神疾患のかかわり、怒りのコントロール、PTSDと薬物依存といった、異なったテーマのグループを持つのである。
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    • 支援センターの前は、いつも大勢のホームレスがたばこをふかしながらたむろしていて、普通の人なら少し入るのに勇気がいるだろう。中に入れば、ソファに座ってぼんやりする人、朝食がわりに出されるパンやデニッシュをかじる者、新聞を読む者、スタッフに職やシェルターの仲介を依頼している人など、年齢も人種もさまざまなホームレスでごったがえしている。女性も少なからずいる。 グループセラピーは、午前と午後、毎日2回行われている。グループへの参加は、センター利用者の義務なので(つまり、グループに出なければシャワーも洗濯機も使えないし、昼食ももらえない)、彼らの参加動機は決して高いとはいえない。グループの時間になると立ち上がって出ていってしまう人さえいる。さらに、なにせ相手はホームレスだから、その日のグループにだれが来ているかはふたを開けてみるまでは分からない。そんな彼らの興味を一時間半引き付けるグループを持つのは、なかなか骨の折れる仕事であった。こちらがいくら頑張ってもまったく盛り上がらなかったり、仲の悪い者同士がたまたま同席して大喧嘩が始まったり、とにかくいろいろなことが起こる。 それでも、回を重ねると、お互いの存在にも慣れ、私のグループを楽しみにしてくれる人も出てきた。これから話す彼もその一人だった。仮に名前をJとしておく。Jは退役軍人である(男性ホームレスには、退役軍人の割合が非常に高い)。コカイン中毒のほか、ある重い精神疾患も抱えているが、まじめにプログラムに参加したのが奏功して、ここ一年半ほどはドラッグとも手を切っていた。そのため低所得者用の公的住宅に入ることができ、生活保護も受けて、なんとか一人でも暮らすことができるようになった。彼はほぼ毎日その住宅から、徒歩でルームメイトと一緒に支援センターにやってきて一日を過ごし、グループにもきちんと参加していた。ちょっとおどけたところのある、気のいい彼は、あまり積極的に発言はしないが、ときどき冗談を言って皆を笑わせるムードメーカーだった。私を子供のように慕ってくれる一面もあり、私が休んだ翌週は、まっさきに私のところに寄ってきて「先週はどうしたんだ。病気でもしたのか」と心配し、「先週はトレーニングがあって来られなかったの」と言うと、ほっとしたように笑顔を見せる人だった。 そんなJが、あるときを境に、ふっつりと姿を見せなくなった。ホームレスは出入りが激しいのが常だが、彼ほどまめに顔を出していた人が、何週間もまったく姿を見せないのは不自然だった。ルームメイトのKに聞いても、行方は知らないと言うだけである。 しばらく経って、スタッフの一人が彼をセンターから数キロ離れたショッピングモールの前で見かけた。明らかにクスリを使っていると分かる口調で小銭をせがんできた。スタッフが「お金はあげられないわ」と答えると、ふらふらと立ち去ったという。 あれほどまじめに毎日グループに参加し続けていた彼がリラプスしてしまったとは。私は過去のグループ記録で分厚くふくらんだ彼のファイルを思い出し、暗い気持ちになった。それからさらに何週間か経ったある日、Jは突然センターに戻ってきた。変わり果てた彼の様子に私はしばし言葉を失った。げっそりとやせて目だけがぎらぎらと光り、白髪が増えた髪は伸び放題、服はぼろぼろである。異臭もする。何より変わったのは彼の表情だった。いつも柔和な顔つきだった彼が、ろれつの回らない声で人が変わったように猛々しくスタッフにわめきちらしている。よく聞いてみると、生活保護の小切手の受け取り先をセンターにしてあるのに、スタッフがそのお金を自分にくれないといって騒いでいるのである。もちろん、渡したお金を右から左にコカインに使ってしまうのが分かっているのに、スタッフがそう簡単に金を渡してやれるわけもない。私が話しかけても、誰だかもよく分からない様子である。 「さっきは酔って道の真ん中に寝ていたのよ。車も通るのに危ないわ。何とかならないものかしら」。若いスタッフの一人、リサが心配そうに話す。ベテランの男性スタッフが彼に落ち着いた声で話し続け、彼もようやく最後に少し落ち着きを取り戻した。しかしクスリを使っているためにセンター内には入れてもらえない。グループを終えて外に出てみるとすでに彼の姿はなかった。 一部始終を目の当たりにした私は、すっかり気が滅入ってしまった。せっかく頑張って回復していたのに、再びクスリを使い始めて住むところも何もかもまた失ってしまった彼が哀れでならなかった。このままだと彼は早晩路上で死んでしまうかもしれない。何とか彼を助ける方法はないものか。生命の危険を理由に措置入院させることはできないのだろうか・・・。 スーパービジョンの席で、私はそんな気持ちをアルマにぶつけた。しかし、私の言葉をじっと聞いていたアルマは、「だめね。措置入院なんて無理よ。積極的に自殺を図ろうとしたわけでも、他人に危害を与えているわけでもないんだもの。命の危険というには弱すぎるわ」と言う。そして次に彼女の口から出たのが、冒頭の言葉であった。 さすがアメリカというべきか、本当にドライだな・・・と最初は思った。しかし、よく考えてみると、彼女の言うことももっともなのである。彼らのような、厳しい環境におかれた人々と日々接していると、「何とかしてあげなくちゃ」という気持ちになるのはたやすい。私が頑張れば彼らを‘救える’のではないかと錯覚してしまうのだ。しかし、薬物依存症の人と働いたことがある人間ならば誰でも知っているだろうだが、薬物依存は周囲がどれだけ躍起になったところで、本人に助けを求める気持ちや、やめたいという意志がなければ決して回復へのステップは始まらない。つまり、私がJのためにやきもきしたり落ち込んだり、入院させるために走り回ったりすることが、彼の回復の助けになるとは限らないということだ。おまけに、そんな「共依存」的態度を繰り返していたら、それだけで疲れ果ててしまい、セラピストとしてのあり方が損なわれる。そんな基本的なことを、アルマは短い言葉で私に思い出させてくれたのだった。 回復途上にある人が、またリラプスして心身ともにぼろぼろになっていくのを見るのはつらいものだ。だが薬物依存からの回復は、基本的には本人次第である。重い荷物を背負って山道を登ってゆくのは彼ら自身であり。われわれセラピストは、そのかたわらを寄り添って歩いているにすぎない。どんなに荷物が重くても、道が遠くても、その荷を私が代わりに引き受けることはできないし、歩いている人を無理やり引っ張ってゆくこともできない。歩いている人はときに歩みを止めてしまうこともあるだろうし、ずるずると後退してしまうことだってあるだろう。そんなときでも、私たちにできるのは、ただそこにいて待つこと、あなたは一人ぼっちじゃないと伝えることだけだ。まさに我々は誰かを救えるような「たいした人間」ではない。道を歩いていくのはその人自身であり、他のだれにもそれは代われないのだ。 (なお、プライバシー保護のため、クライアントの個人情報は一部変更してあります) 藤原 千枝子(ふじわら ちえこ)新聞記者を経て渡米、サンフランシスコのカリフォルニア統合学研究所にてカウンセリング心理学修士課程終了。サンフランシスコとその周辺の複数のNPOにて、カウンセラーとして個人、家族、グループセラピーならびに子供のプレイセラピーを行う。現在はFamily Service Agency of San Franciscoにてインターンセラピスト。専門はハコミセラピーとトラウマ治療。

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