「依存」と克服の精神性

「今、薬をやめてから幸せになったとおっしゃっていましたが、幸せってどういうことですか?」

fp10

これは、ある薬物依存克服のためのセルフヘルプグループで、参加者がその日スピーチをした人に向けてした質問です。これを読んでいる貴方ならどう答えますか?

私は、臨床心理学を勉強しているので、ときどき、AAやNAや、いろいろなセルフヘルプグループのミーティングに参加する機会に恵まれます。そのようなグループに参加するといつも思うことがあります。それは、「依存」と闘う人には心の深い、気持ちの高い方が多いということです。グループでなされたスピーチに感動して涙が出てくることはしょっちゅうで、そこで話された言葉がずっと胸に残り、生活のいろいろな場面で蘇ってきたり、私の生活を支え豊かにしてくれることも何度もありました。そういう体験が続くうち、ある時から、この豊かさは「依存」との闘いが持っている精神性が関係しているのではないかと思うようになりました。
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    • 日本文化の精神世界は、仏教の影響を強く受けています。その教えの中で、克服すべきもの、よくないものの代表に「執着心」があります。この「執着」、英語に訳すとどうなるでしょう?アメリカに来て英語で本を読み始めて驚いたことの中でも、これは最も印象深いものの一つなのですが、それはどうやら”attachment”になるみたいなのです。アタッチメント、日本語では「愛着」などと訳されますが、心理学では、幼児が母親に対して健康的なアタッチメントを育てられないことは大きな問題になりますし、それまでアタッチメントという言葉はどちらかというと暖かい愛情の繋がりみたいなものとして理解してきたので、この訳語を見てびっくりしてしまったわけです。それで、考えてみれば何かに執着することそれ自体は別に悪いことではないのだなと気付かされました。文化や宗教が人の心に与えている影響は本当に驚くべきものですね。 ともあれ、この「アタッチメント」は、「依存」を考える上で非常に大事な要素になっています。「依存」の訳語は「ディペンデンス」、「インディペンデンス・独立、自立」の反対語です。自立が、自分だけの力で独立して立っていることとすれば、依存は、自分以外の何かに依って生きている状態とでもいえるでしょうか。その依存関係をささえるものとして、「アタッチメント」という感情はとても大きな役割を果たします。人は、依存の対象に非常に強い「アタッチメント」を感じているものであり、だからこそ依存、いわば自分が何かにコントロールされるという本来なら非常に不愉快なはずの状態が可能になるからです。 コカイン(スティミュラントなどと呼ばれる「ハイ」な状態をもたらすもの)などの強い薬物は、たった一回の摂取でも脳の働きを変えると言われています。自然な状態で得られるものの何倍もの量の快感物質が脳内に起きるわけですからそれも当然です。一度自転車の乗り方を覚えたらそれを忘れることはないように、脳はその体験を忘れることができません。それがもたらす「至福」の感情は自然な体験によって得られる喜びの感情より何倍も強いため、その薬物を摂り続けるうちに、本来なら「幸せ」を感じるはずのそれ以外の何ものも、おいしい食事や、愛しい恋人とのひととき、かわいい我が子さえも、それに勝つことができなくなります。つまり、薬物のもたらす効果への愛着が、それ以外のものへの愛着を上回ってしまうのです。それは、その人の人格がどうのとか愛情の強弱という問題ではまったくなく、コカインという薬物に対するの脳の物理的反応にすぎないのですが、それまでの生活の中で「幸せ」と感じていたものがもう十分「幸せ」ではなくなってしまうという体験は、その人の人生と、その人をとりまく人間関係に、莫大な影響をもたらします。薬物に限らず多くのものへの「依存」に言えることですが、そのまま突き進んでいくと最終的には、その依存対象以外のすべてのものを失い、自分をも失ってしまうことにもなりかねません。すべてを失うという以上にひどい結果になることもまれではありません。 それなら、なんでそもそも薬物なんて手にとったのでしょう。なんらかの薬物やアルコールを摂取しようとする動機の多くには、刺激を求める気持ちだけでなく、心の「痛み止め」を求める気持ちが存在しています。昨年9月11日、ニューヨークで大規模なテロが発生し、多くの人の命が失われました。ニューヨーク出身の先生によれば、あの事件からほぼ1月後くらいに、ニューヨーク付近の多くの店で棚に並べてあるアルコール類の数が極端に減ったそうです。つまり、売れ過ぎて商品が間に合わなかったということです。薬も同じで、社会的に「良くない」とされているものにリスクを承知であえて手を出すには、リスクをかけてもそれを必要とするほどの何かがその人の中に存在しているということでしょうか。激痛に苦しむ重傷患者に鎮痛剤をうつなとは言わないように、痛み止めを求める気持ちそのものを非難することは誰にもできません。しかし痛み止めとなる「物質」によって変化した心が、その人やまわりに人たちに新たにより深い傷を作っていくというのは、悲しく残念なことです。 他の何からも得られない至福の感情を知りながら、それから一生身を遠ざけていくこと、しかも、それがなければ鎮痛剤が切れたように心の傷が痛みはじめるとなれば、それなしで生きようとするのは並大抵のことではないでしょう。生きることの価値が「幸せ」にあるというごくあたりまえのことを、もう一度考えなおさなければならなくなるかもしれません。「幸せ」とは何か、生きるとはどういうことかと、一から問い直すことになるかもしれません。もし、依存の対象が恋人や家族だったら、誰もが同情するでしょうが、薬となるとそうはいかないところが更にやっかいです。理解も同情も得られない困難を、生きることの意味や価値を問い直しながら進んでいくことは、本当に大変なことでしょう。 仏教の僧侶がすべての執着心をとりはらうことを目指して修行をするのと同じような自己への挑戦が、薬物への強い執着を克服しようとする「依存」との闘いの中にあるのかもしれません。しかも「依存」との闘いには、仏教でのお経や「釈迦の教え」のようなテキストが存在しません。一人一人が、それぞれに自分で「教え」を探し、作り上げながら、心の傷をかかえつつ、無理解の中で歩き続けていくということなのですから、その道行きがその人の精神性を磨き、深め、高めるのは、むしろ当然なことのようにも思えます。人生の最悪な時を見、修羅場を抜け、そこから生きることを命がけで選んだその人自身が、生の体験から、あるいは渇望の中で得た仲間からの支えを通して、一つ一つ編み上げた「教え」だからこそ、聞く者の胸に深いところから感動を与えてくれるのでしょう。 冒頭で出した質問、答えはどんなものでしたか?私はといえば、そのミーティングの中で自分なりに答えを探してみましたが、残念ながら何も思いつきませんでした。それだけ普段、意識の低い生活を送っているということでしょう。このミーティングでスピーチをした人の答えは次のようなものでした。 「そうですね、僕の場合は、自分で『ああこれが幸せってことだ』と思ってはっきり覚えていることがいくつかあるんです。だから具体的なんですよ。そのうちの一つは、ある時突然、夜空には星があるんだって思い出したことです。昔は夜なんて下向いて歩きながら薬のことしか考えてなかったから、空があることさえ忘れてたんですね。その星が本当に綺麗で感動したことです。あと、全くの素面の状態で、夕焼けの美しさに感動して、涙が出てきたこと。あんなことで自分が泣けるなんて思わなかった。夕焼けを見て何かを思い出したわけでもないし、誰かに見せたいって思ったわけでもない、ただ、綺麗だなあって感動して泣くだけで、それがとっても気持ちよかったんですよ。そういう喜びを感じられる自分が、本当に幸せだと思います。」

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