新しい生き方

「死ぬということは、笑い落胆し大騒ぎした魂と肉体が大自然に吸収され存在しなくなることである。」と新聞の投稿欄で目にし、涙が止まらなかった。この苦しみから逃れられるなら生きていたくないと思い、笑うことはなく、それでも生きていかねばならない自分の運命を呪っていた。

fp29

その頃はまだ、二人の息子が依存症という病気であるなんて知る由もなかった。96年の春、次男が大学一年の終わりに眠剤を多量に服用し、風呂場で昏睡のところを泣きわめきながら助け出したり、夏電車の中で意識不明のところを車掌に見つけられ救急病院へ夫と駆けつけたりした。眠剤や安定剤を乱用しては事件を起こす息子。病院より紹介されたアルコール専門クリニックへ首に縄をつけて連れていった。ある時は泣き落とし、ある時は暴言を浴びせ。翌年の春、大学をほったらかして家出。生死すら分からない四ヶ月あまり、新聞の三面をこわごわ開く毎日に神経性胃炎で五キロもやせてしまった。息子の通っていた大学の近くをタクシーで走っていて、息子だ!とつり銭も受け取らず飛び降りて駆け寄ると、全然別人で同じなのはコートの色だけだった。

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    • そんな混乱した自分に鞭打って上京。悔しさであふれる涙をぬぐおうともせず山の手線に乗って、サラ金の借用証書をにぎりしめ長男のバイト先へ向かっていた。大学五年目で二度の留年、半年前に家賃を滞納したあげくアパートを追い出され、尻拭いをした後のサラ金だった。大学に籍はあるものの通っていたのは、ひたすらパチンコ屋で湯水のごとくお金を使っていた。しっかりしてよ、目をさましてよ、と泣き狂って頬を叩いても何の反能もなかった。 二人の息子は人間ではなく、宇宙人か他の生き物だ。高校、予備校、大学へと子供たちのためを思って私も夫も一生懸命働いてきたのに、なぜ後ろ足で砂をかけるような仕打ちばかりするのだろうか。一人思い悩み、長く暗い迷路の中にいた。アルコール専門クリニックで目にしたASKを訪ね、スタッフのIさんに大阪ダルクのめばさんを訪ねなさいと優しく言われ、97年夏の終わりに大阪ダルクへたどりついた。ダルクでは、依存者本人たちは取りあえず放っておいて、お母さん自身が元気になってくださいと、自助グループを紹介された。 息子のために、と通い始めた会だが、日本中で、いや世界中で一番不幸な私という気持ちが少しずつ変わっていった。回復の第一歩、私たちは依存症に対して無力である。私自身も共依存という病気なんだと気づき、被害者意識だらけだった気持ちが一転して、依存者本人の苦しい心の内も考えられるようになった。ギャンブルと薬物で自分を痛めつけて、息子たちは何を親や社会に訴えているのだろう。 私が回復の軌道を歩み始めると共に、二人の依存症の息子たちもGAやNA、精神病院へたどりついた。自分の共依存というスリップは棚に上げて、スリップする息子たちを責めていた。しかし回復はゆっくり、スリップも回復の一過程だと思えるようになった。自助グループのスローガンで私の好きな言葉、「手から離して神に預けよ。自分自身に生き他の人は他の人自身に生かしめよ。聞きなさい、そして学べ。」 ハイヤーパワーは私に試練とご褒美を下さいました。ギャンブル依存だった長男はアブステイナンス(クリーン)六ヶ月になろうとしています。二度目のサラ金を自分で働いてほぼ完済。死ななきゃ治らないのかと苦しみぬいた過去を、今では正直に話してくれます。次男のことで悩むとき、長男は私に言います。「母ちゃん、一番大切なのは自分自身の回復だよ。父ちゃんだって変わったよ。家族それぞれが自分の回復をめざそうよ。」 一方、次男は依存症の回復の難しさを次々と教えてくれます。98年秋から、精神科の主治医に親子で心強い助言をもらっています。眠剤・安定剤・ブロンへの依存が深く、家を出て一人暮らしをしている次男はヨチヨチ歩きの幼子のようです。「あっ危ない」と心の中で声を上げることもありますが、私の両手は固く後ろに組んだままです。「あいつもいつか気づくよ」という長男の言葉に、不思議と「そうね」と答える新しい生き方が今の私にあります。

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