薬物依存症回復支援 — 薬物依存症は回復できる病です

薬物依存症のアンダーソン


・・・親父はアルコール依存

fp18

電気工事の機材を積んだ軽トラックの助手席に僕は座っていた。運転手は親父。僕が小学校低学年の頃、親父の仕事を手伝うと言って日当の五百円を目当てについて来たのだ。
自宅を出発して15分程で到着した場所は酒屋だった。店内に入って親父は椅子に腰掛けた。どうしたらいいのかわからない僕に親父は「なんかお菓子でも好きな物を選んどいで」と言いながらカップ酒のフタを開け、ゆっくりとカップ酒を飲みだした。僕は親父に言われたとおりにほしくもないお菓子を選ぶフリをした。ほしくないからお菓子を選んでも決まらない。お店の人と話をする声が聞こえる。どうやら僕の事が話題になっているようだ。まわりの気配をきにしながら、やっとお菓子が決まった。シスコーンというコーンフレークのお菓子だ。その小さな菓子箱を持って親父の傍らへ行くと「なんや、それだけか。もっともってきたらいいのに。ジュースはいらんのか。」と親父なりに気を使ってくれたのだ。でも、僕はどうしていいのかわからないから親父の横に座っているしかなくって。
そうこうするうちに時間が過ぎ、親父はカップ酒をすでに何個か飲んでいた。
・・・もう自宅を出た時の親父ではなくなっていた。

アルコールを飲むと酔っ払うという事が当時の僕には理解できなかった。アルコールを飲んでいる時の親父は、あまり好きではなかった。いつものように酔っ払って帰宅する親父だった。
しかし大人になると言う事は親父のように[アルコールが飲めるようになる事なんだ]と幼少の頃の僕は理解していた。

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    • そしてまたある日の事。親父はニコニコ笑いながら、「作業場にちょっとおいで」と母屋にいた僕に声をかけた。゛なんだろう″と思いながら自宅にある作業場にいってみると。「これどうや」とさしだしたのは船だった。全長50cmぐらいで半分から上側に青色と下側に赤色のペンキが丁寧に塗装されていた。僕の手に受け取った瞬間すごく重くって。木でできている代物ではないとわかった。「これどうしたん?」と尋ねると親父はニコニコ笑いながら「作ったんや」と答えた。ブリキ板を加工した船だった。よく見ると金色のスクリューが付いている。゛こんな重いものが水に浮かぶのか″疑問に思っている僕に親父が言った。「試運転に川へ行こう、長靴はいておいで」すごく嬉しくって船をその場にそっと置くやいなや一目散に作業場から母屋に駆け込んだ。そして長靴にはきかえながら大きな声で言った。「おかあちゃん!おとうちゃんが船つくってくれたん試運転してくる!」と言うのが終わるか終わらないかで母屋を飛び出し、転がるように船のところへ戻っていた。重い船を抱えあげ親父と近くにある川原まで行った。その道すがら船の重さで腕が痛くなったが嬉しさのほうが大きくって川面に浮かべるまで痛さをこらえた。親父が船の舵を傾けスイッチを「パチン」と入れると「ブーン」と勢い良くスクリュウが回転した。船から手を離すと大きくカーブを描きながら川面を進んで行った。
      僕の小さな胸なはちきれそうな感動でいっぱいになった。夕陽が川面に反射して光り輝いていた。その光に吸い込まれるように船が進んでいく。じっと船に見とれていた。
      45歳になった今でもあの光景はしっかりと脳裏に焼き付いている。
      その時の親父は素面だったと思う。優しい親父。だから僕は親父が大好きだ。
      また、ある夜の出来事だった。僕はテレビを見ていた。二歳年上の姉とお袋、親父の義理の弟が居間にいた。そこへ酔っ払った親父が帰宅した。最初は何も変わった様子はなかった。
      次第に辺りの空気がおかしくなりつつある事が幼い僕にもわかりだした。酔っ払っている親父と義理の弟の会話が荒々しくなり始めた。とうとう言い合いの口喧嘩に発展した。
      その次に「どたん、ばたん」と取っ組み合いの喧嘩になり、そして義理の弟が親父を殴りつけた。親父が床に倒れこんだ。僕は親父の事が心配になったがどうしていいのかわからないうえに、状況の恐ろしさに震えていた。テレビの音も耳に入ってこない。倒れている親父を見つめていた。
      なぜかふっと僕の脳裏によぎったのは{次は僕が殴られるんじゃないか?}そう考えていた。
      次の瞬間ムクムクと親父が起き上がった。どこか安心したのもつかの間、親父の義理の弟が大声を出した事に驚いた。「お前なんか、この家にいる資格がない、出て行け!」それに答えるように、親父は「お前に、そんな事言われる筋合いないんじゃ!」と言い残し、家を出て行った。
      その親父の後姿を僕は見ているしか術がなかった。
      その時にやってきた思いは。{お父ちゃんまた帰ってくるんやろか。なんで僕の家ではこんな事が起きるんやろ。友達の家でもこんな事あるんやろか。僕だけなんやろか。逃げたい。もういや。僕の大好きな親父が殴られたことの腹立たしさ。どうしていいのかわからない。}
      一呼吸おいて義理の弟が鬼のような形相で僕を見た。{わあ!やっぱり次は僕が殴られる!}僕はその表情を悟られまいと、いろんな思いを殺すように、とっさに僕は顔をひきつらせ、作り笑顔で答えてみせた。殴られなかった。

      とまあこんな具合で幼少期を過ごした訳です。他にもまだまだあるのですがこの事は僕の中にはっきりと記憶に残っている出来事です。また、この事は最近やっと話ができるようになりました。
      それから何年か後に親父は腎臓病を患いました。それから腎不全になり約10年ぐらい人工透析を受けていました。その人工透析を受けた帰りに親父から聞いた話です。
      「お父さんな、酒飲んでたけど、ほんまはやめたかったんや。もう飲まんとこと思っても飲んでしまう。長い間苦しかった。・・・ほんでな、お寺に行って{酒やめたい}と願掛けしてみたりしたけど、どないしても酒飲んでしまう。でもな、その願いが叶ったのか腎不全になってやっと酒やめさせてもらえたんちゃうかと思う。」
      そんなふうに独り言のように話をしていた。
      やめたかったらやめたらいいのに。飲まへんかったらいいのに。と僕は思いながら「ふーん」と返事をしたままだった。
      この時の僕は親父がお酒をやめたくて苦しんでいた事など全くわからなかった。

      ・・・僕は良い子?悪い子?普通の子?

      小学校低学年の頃、僕は中耳炎によくなっていた。家は郊外にあるので僕が中耳炎になると親父は軽トラックで毎朝必ず耳鼻科へ診察に連れて行ってくれた。学校に行く前に耳鼻科に行って少し授業に遅れて登校する。そういう時がたびたびあった。
      中耳炎になる時ってすんごく痛いんです。その激痛が訪れるのが決まって夜中で、いつものように寝ていると、激痛で目がさめて、朝まで「んー、んー」と、うなっていた。
      朝になって耳から訳のわからん液体が出ているのをお袋に見せると、お袋はあわてて「えらいこっちゃ!耳垂れだしとる。おとうさん病院連れて行ったって!」と寝ている親父をたたき起こすのでした。
      僕は自分の中の異変を表現できなかったのと、{怒られへんやろか}という思いで激痛に耐え、結果としての状態が訪れてからその事を知らせる。そんな子でした。
      いまだに、風邪をひいたりして高熱が出ていても病院にはすぐ行かずに回りを気にして自分の事を後回しに考えがちになる。しかし仲間から「病院に行ったほうがいいよ。」の一言を聞くと素直に受け入れるようにしています。

      次に中学生の時でした。仲の良い同級生二人とタバコを吸ってみようという話がまとまり、夜に勉強会をする事を理由に家を外出して三人が学校に集合した。
      同級生が用意したタバコを三人それぞれが口にくわえ順番に火を着けていった。大人たちのまねをして煙を吸った。その瞬間「ゲホ、ゲホ、ゲホ」お茶が気管に入った時みたいに、すごく咳き込んだ。そして、平行感覚がおかしくなって、その場に座り込んだ。
      大人たちが吸っているようには吸えない・・・。とりあえず、煙を吹かすだけにした。
      それが僕のニコチン依存になる始まりだった。
      その後、学級委員長になり、生徒会長まで務めた。学校内や親の前では良い子だった。
      中学校で生徒会長になるのは小学生の時からの念願だった。
      小学校では児童会があり、そこでは副会長にしかなれなかった事が悔しくて、{どうしても会長の座に就きたい。}その思いを実現させる必要があった。なぜなら、{誉められたい}{認められたい}{役に立ちたい}という思いが強かったからだ。そのくせ学校の成績は最下位だった。勉強は大キライだった。
      そして、高校受験をするにあたり担任の先生との話し合いで、今後の進路は大学を目指すのではなく就職を目標に工業高校に進学しようという事になった。

      教材メーカーの模擬試験を受けた時、志望校を記入しておくと自分の成績がどれぐらいの順位なのかデータを出してくれるシステムがあり、僕の志望する学校は500人ぐらいの人数があった。勉強ギライの僕が上位から60人ぐらいの位置にあった。「これならいける」そう思うと以前にもまして勉強をしなくなった。
      「高校に合格するのだろうか」と中学校の担任の先生はかなり心配していたようだが、僕は鼻歌気分だった。そして、なんなく志望校に合格してしまった。
      すべての物事に対して「なめてかかる」そんな事の始まりだったのかもしれない。
      前記にあるように僕はもともと郊外にある田舎で育っていて、学校は1階が小学校で3階が中学校と同じ校舎にあり。体育館は共同。生徒数も小・中、合わせても100人ぐらいの少人数だ。ぼくのクラスは9人だった。体育祭も昔から小・中合同だった。
      そんな状況から高校の1クラス40数人、生徒全数1,200人という大きな変化は衝撃的だった。
      高校生になったある日、担任の先生に言われた。
      「授業中は真面目やし、普段からオトナシイ、あんまり目立たん。学校の中ではごっつう真面目に見える。けど、何考えとるかわからん。学校の外へ出ると何しとるかわからんな。」そう言われても僕はトボケテ{なんのこと?}くらいにしか感じなかった。
      そして倫理・社会の試験の出来事だ。
      珍しく試験に備えて勉強をした。いざ答案用紙を見ると山が外れていた。そこで思い出したのが中学校の先生が言っていた事だ。「答案用紙に答えられない時は、自分が勉強した事を答えとして書けば、20点ぐらいはくれるはずだ」と言う事だった。さっそく実践してみた。答案用紙に「山が外れたので、自分が今回試験勉強した事を裏に書きました」と裏面に実際に勉強した事を書いた。試験が終わって数日後、答案用紙が帰ってきた。どうだろうと見てみると、なんと本当に点数が貰えた。たしか表と裏の合計で45点ぐらいだったと思う。後日、その倫社の先生に廊下で会った。すると「この間の試験は下駄履かせたからな、やっぱり答案用紙の表に回答せなあかん。もう一押し何かレポートを提出するように」そう言われて、「そんな・・・」と言いつつも仕方なく承諾した。
      しかし、勉強自体、何をしていいのか訳のわかってない僕が{どないしょうかな}と思いながら新聞を見ていた。独裁政治についての記事があった。何も考えずレポート用紙5枚ぐらいに丸写ししてそれを提出した。すると先生は「君やるなあ!」と肩をたたいてきた。僕はなんや訳わからん。けれども、やっぱり学校の勉強は好きにはなれなかった。仕方なく学校に行って勉強しているフリをするような。そんな感じだった。
      唯一、学校にいく楽しみだったのは軽音楽サークルに入ってロックバンドを結成していたことだ。放課後に練習をする事だった。
      練習をしていると、校内放送で生活指導室に呼び出される。
      「もうちょっと、音を小さくでけへんか」と言われる、その時は「わかりました」と良い返事をするのだが。練習を始めると余計大きな音を出した。
      その当時は「このまま音楽活動でこの先やって行こう」という衝動的な考えもあった。
      バンドの練習がない時は担任の先生の観察どおりに学校を出ると、ちょい悪の先輩達といつものように喫茶店で長時間タバコを吸いながら遊んでいた。もう煙にむせる事はなかった。
      先輩が喧嘩するのをウンコ座りして観戦したりもしたが、僕は恐ろしくて喧嘩はしなかった。街中で控えめに、にらみ合いをするぐらいだった。
      毎日ではなかったけど、姉の彼氏に貰った丈の長い学ランと腰から裾までブカブカのズボンを着ることもあった。たまにしか着ないのは喧嘩を売られても怖くて買えないからだ。
      こんな感じで田舎から都会へ出てきた僕は不良に憧れるのですが中途半端な不良のフリをしていました。
      少し余談になるが、関西ではにらみ合いの事を「メンチきる」と言うのです。関東では「ガンとばす」とか言うらしいです。知人によると、関西ではにらみ合いの意味だけど広島方面では大変な意味らしいです。女性が痛がるとか・・・

      関係ない話はおいといて、高校生の当時はディスコにも行った。大阪の東通商店街を歩いているとディスコの店員が店の呼び込みの為にウイスキーの無料券を手渡してきた。それを持ってディスコに行く。土曜日の夜は毎週ディスコに行った。
      無料券で出てくる化粧瓶に入ったウイスキー。しょっちゅう悪酔いした。その悪酔いがアルコールの耐性を形成しているとも知らず化粧瓶に入っている安酒を飲み続けていた。
      でも、{こうやって大人になっていくんだ}そう信じていた。
      家は裕福ではないが、おばあちゃんが毎月五千円~一万円の小遣いをくれた。「動けんようになっても面倒見てな」という言葉と一緒に。それと、奨学金の援助をうけていた。学校の事務所からお金を受け取るので授業料の支払いは自分がしていた。高校は公立だったのもあり奨学金も二箇所から受けていたので余るほどだった。授業料を支払ってお金が余っても親には黙っていた。だから遊ぶお金には不自由はしなかった。
      ディスコ通いでアルコールに酔っ払う事が始まった。
      高校1年から3年まで仮進級、追試、追試でなんとか卒業した。
      そして、中学時代の目標通り、就職する事ができた。その就職先は担当の先生がなぜか優先的に斡旋してくれた。
      今になって先生の配慮のお蔭で就職できたようなものだと思う。当時はなんとも思わなかった。まるで、都合のよい動く歩道にでも乗っているかのように、すべてなめてかかってましたから。

      アルコールを飲めるのがオトナ?

      高校から就職したのは、建設機械のメーカーだった。パワーショベルやブルドーザーなどの重機を修理する仕事だ。新入社員研修という事で東京の本社へ行く事になった。生まれて初めて新宿まで一人で行った。ワクワク、ドキドキ、希望に満ち溢れていた。研修期間中は社員寮に宿泊する事になっていた。社員寮は新宿から小田急線で四十分ぐらいの神奈川県にあった。初日の夜、寮に行くと先輩たちが寮の一室でささやかな歓迎会を開いてくれた。「酒飲めるんだろ?」とすすめられ、当然ですよと思いながら「少しだけなら・・・」と控えめに返事をした。ビールをグラスに注いでもらった。それをいっき飲みした。「うぉー、たのもしいじゃないか!」と先輩達に拍手で歓迎された。
      幼少の頃に思っていた「アルコールが飲めるようになるのがオトナなんだ」が現実になった瞬間だった。「ようし、後は仕事を憶えて一生懸命やって行くんだ」という決意もあった。
      二週間の研修が終わり、「大阪支社勤務を命ずる」という辞令をもらい大阪へ帰った。大阪では盛大な歓迎会が開かれた。豊中市内にあるホテルだった。
      「十八歳だけど社会人になったのだから飲んでもいいよ」と工場長から生ビールを勧められた。その時はかなり酔っ払った。でも、そのアルコールの酔いがなんともいえないくらい気持ちよかった。帰りはタクシーだった。「これを運転手さんに渡すとお金はいらないから」とタクシーチケットをもらい、自宅までかえった。「へーすごいな、これがオトナの世界なのか」と感心した。

      それから本格的に仕事が始まった。先輩社員に気に入られようと、油と土に汚れ、何もかも進んで取り組んで行った。誉めてもらえる事を期待して、自分の事をさておき一生懸命がんばった。
      一ヶ月ぐらい過ぎたある日、帰宅すると見たことのない乗用車がガレージに止まっていた。「お客さんが来ているのだ」と思った。家に入るとお客さんの姿はない。不思議に思い、両親に「どこの車?」と尋ねた。すると、お袋が「お前の就職祝いにお父さんが買ってくれたよ」と言った。うそみたいで信じられなかった。「ほんまに?」と確認すると、親父がニコニコ笑っていた。欲しかったケンとメリーのスカイラインだった。早速試乗した。
      運転免許は親に費用を出してもらって高校生の時に取得していた。

      覚せい剤を注射

      十八歳で会社員になって、仕事はまだまだこなせないが環境や習慣に少しずつなれていった。不安もなく、まあまあ楽しく毎日を過ごしていた。
      会社からは交通費の全額支給があった。実家は郊外にあるのでかなりの金額の交通費をもらっていた。僕は電車とバスを乗り継いで通勤していたが社員のほとんどがマイカー通勤をしていた。先輩からその事でアドバイスをうけた。「電車やバスで通勤していることにして交通費はそのまま貰っとけばいい。みんなそうやし・・・」僕も先輩達のまねをしてマイカー通勤にきりかえた。自動車を買ってもらったので、その返済をするような気持ちで給料の半分をお袋に渡すということにしていたのだが、マイカー通勤にしてからは、自動車に駐車場代やガソリン代などいろいろ経費がかかるという理由をつけて、お金を渡す事を一方的にやめた。家への入金は半年ぐらいで終わってしまった。

      それからは次第に自動車の改造にお金をつぎ込むことが始まった。改造部品の購入はいくつも信販ローンを組んだ。ガソリン代も後払いにしていた。
      ワイドタイヤとフォーカスレーシングのアルミホイール、ショックはコニー、サスはジムカーナ用を二段カット、SOLEXにファンネル、タコ足、デュアルマフラー、ハンドルはキャバリーノ、ハイパワーカーコンポ、などなど、自動車に興味があった人はご存知だと思う。改造部品の販売店で知り合った仲間も増えていった。盗品ブローカーとも知り合い、部品を買うこともあった。
      自分で自動車の改造をすることや走り回るのはめちゃくちゃ楽しかった。知り合いの暴走族と暴走もした。改造車の雑誌に取材を受け雑誌に紹介されたこともあった。
      だが、気が付いてみると給料を貰ったその日に支払でお金が消えてしまう。少し多額の交通費で日頃必要なお金をなんとか調整していた。ボーナスが入ると、これまた助かった。
      破綻寸前の自転車操業でどうにかもちこたえているそんな感じだった。
      だんだんと会社への出勤、仕事が馬鹿らしく思えてきて、とにかく夜の暴走族仲間たちと暴走したくて会社の仕事もそこそこに定時の終業を待ちかねて会社を飛び出す。仕事をしているフリをしていた。学校の勉強が会社の仕事に代わっただけで、高校時代と同じだった。新入社員研修の時にあった決意「仕事を一生懸命やっていくんだ」なんかいつの間にか消えうせていた。
      そんなある日の夜、いつものタマリ場にいくと二人の仲間が「ちょっとお願いがある」と言ってきた。「車を持ってないのであるところまで送ってほしい」という依頼だった。 特に用事もないので軽く引き受けた。その仲間は弁当を買って僕の車に乗り込んだ。行き先は、知っている暴力団員の所に弁当を持って行くと言うのだが、仲間の指示でたどり着いたのはラブホテルだった。「こんなところに来てどないなっとんねん」と思いながらも仲間二人の案内で部屋に入って行った。すると僕も顔見知りの暴力団員のおっさんがいた。たまに行くスナックで何度か出会ったことがあった。みんなで雑談をしていた。一時間ぐらい過ぎた頃おっさんが部屋の片隅から靴下をもってきた。何をするのだろうと不思議そうに見ていると、靴下の中からガラス製の注射器と紙包みを取り出した。みるみるうちに注射の準備が進んでいった。「覚せい剤か?」。テレビなどで注射をするのは知ってはいたが実際に現物を見るのは初めてだったので興味深く見ていた。すると、仲間二人は当然のように腕に注射してもらった。そして僕を見てニコっと笑った。その光景を見ていた僕に「次は、お前に注射したろ」とおっさんに言われ僕は一瞬ためらったが、先に注射してもらった仲間も平気そうだし、どんなものか興味があったので僕も左腕に注射してもらった。すると、なんとも言えない快感が全身をかけめぐった。まるでスーパーマンのように強くなったかのような感覚と下腹のあたりから強いやる気のようなものが湧いてきた。何も怖くない。「これが覚せい剤というものか」と感動もした。
      その後おっさんが注文した薬の受け取りにも平気で行けた。ルンルン気分でホテルに戻ってから何度か薬を注射してもらった。だが調子よかったのは初めのうちだけだった。
      その暴力団員のおっさんは覚せい剤を常用しているので薬の耐性がすでにできている状態にあった。しかし、僕は初めての覚せい剤使用だったので、何度も追い打ちしてくれたものだから体がおかしくなり始め、とうとう身動きできなくなった。「なんか変」暑くも無いないのに汗が吹き出てくる。冷や汗でもない、「なんや訳わからん」。呼吸もしているのかどうかもわからない。つまり、急性中毒のような状態に、覚せい剤によってなってしまった。今になって思うのは、あの時ショック死していたかもしれないということだ。それと、あまり良くないネタだったのだろう。
      気が付くと、おっさんはイビキをかいて寝込んでいた。僕はソファーに座っていた。アゴからは汗がポタポタ落ちていた。逃げるようになんとかその場を飛び出した。平行感覚がおかしい。自分が自分でないような・・・、自動車の運転もやっとのこと、信号待ちで時計を見ると5時過ぎだ。「朝になってしまった。しかし交通量が多いなあ・・・」と思いながら渋滞に並んでいた。とりあえず族仲間の職場へ行ってみた。「えっえー!!」なんとビックリ、ホテルに入ってから次の日の夕方になっていた。

      僕は覚せい剤取締法があるのは知っていた。族仲間には体の具合が悪いと言う事で仲間の部屋で休ませてもらった。それから一週間ぐらいしてやっと会社に出勤した。上司には「すいません。食中毒で友達の家で寝込んでいました」とウソの言い訳をして無断欠勤をごまかした。すごく怒られると思っていたが上司は「もう、大丈夫なのか・・・」としか言わなかった。怒られると思っていた事とは逆にみんな心配してくれていた。僕の顔の色は本当に悪かったと思う。
      はじめての覚せい剤使用で思ったことは「やっぱり、法律で使用制限されている訳だ。覚せい剤とは恐ろしいものだ」ということだった。それと、かなりビックリした出来事だったので、まじめに働こうと思いなおした。それからは暴走族仲間のタマリ場に顔をだしてはいたが少しの間、暴走もしなかった。不思議なことに一緒にシャブを注射してもらった仲間も薬には懲りたみたいでその仲間と酒でも飲みに行こうということになりタマリ場の近くの居酒屋へ行った。

      アルコール依存?

      タマリ場で暴走族仲間がシンナーをビニール袋で吸っていた。二~三回吸うとヨダレを垂らして「へへへへへへ・・・」と笑って僕を見る。吸っては笑って僕を見る。「なんか楽しそうだ」僕もやってみたくなった。「そんなに、おもろいんか?その袋かしてみ・・・」と吸ってみた。いい香りだが、どうも笑うようにはならない。「おもろないで」と仲間に言うと、「吸い方が少ないねん」と返事が返ってきたので、かなり吸ってみたが、ガンガンと心臓の鼓動に合わせて頭が痛くなってきた。「もういらん」と袋を返した。「シンナーよりアルコールのほうがいいや」と居酒屋へ行った。
      アルコールを飲む時は、いつも利用している顔なじみのガソリンスタンドを駐車場代わりに使わせてもらっていて、アルコールを飲んだ時は必ず朝までそこで寝ていた。飲酒運転はしなかった。
      しかしある時、居酒屋でほろ酔い気分になって、カラオケをやりにスナックへ行こうと話がまとまり、一緒に飲んでいた仲間の知っている店に「今から行くよ」と連絡を入れた。
      仲間とお金の相談をするとタクシーに乗って行けば料金がかかりすぎてスナックの支払いができなくなる。飲酒運転はいやだけどスナックに行きたい。「仕方ない、僕の車で行こうか?」といつものガソリンスタンドから「飲酒運転はいややなぁ・・・、飲酒検問してへんかなぁ・・・、パトカーおらんかなぁ・・・」と思いながら車を走らせた。スナックでいちだんと酔いがまわった。酔ったせいか、帰りは平気だった。この時から飲酒運転をするようになった。時には酔っ払った勢いで暴走もした。
      アルコールを飲んで酔っ払うと自分の中のどこかが楽になり、すごく楽しくなった。すべてがどうでもよくなった。いつもとちがう自分になりたかった。

      いつもとちがう自分になりたい

      仕事が終わると、アルコールを飲みあるいていては羽目をはずしていた。いきつけの居酒屋から始まってスナックに行ってカラオケをやる。飲み仲間も増えていった。普段あんまりこぼさない愚痴も酔っぱらうと「あーだ、こーだ」とぶちまけた。アルコールを飲んで勢いがつくと「ワイワイ」騒いだり、些細な事で知らない客とケンカもした。いつもの自分ではなくなった。それが楽で、四六時中酔っ払っていたい。そんな感じだった。しかし、それでもなんとか二日酔いが当たり前の状態で会社には行っていた。二日酔いが心地よかった。職場の先輩たちと飲みに行く事もたびたびあったが、会社の中では一応マジメを装っていたので楽な自分に変身できない。その事に気を使うので職場の人たちと一緒にアルコールを飲むと、酔うには酔うのだが楽しく酔っ払えない。アルコールを飲むペースも調整しながら、ほどほどの付き合いをするのがオモシロクなかった。だから、いきつけの店の飲み仲間とアルコールを飲むほうがスゴク楽しかった。そして、気が付いてみると一人で飲み歩いていた。ゆっくり飲みたい時、騒ぎたい時、女の子を口説く時、喋りたい時、その日の気分で店を変えていた。
      朝目覚めて、自分の布団でパジャマに着替えて寝ていた。「ええっ!なんでここで寝てんねん?クルマどうしたんやろ?」あわててガレージに行くと、きちんとバックで入庫してある。クルマの周りを念のためグルット点検。無傷だ。「僕が乗って帰ったんやなぁ?」覚えていない事がほとんどだったが記憶をたどっていくとあれやこれやと思い出したが、ほとんどブラックアウト状態だった。

      依存症の進行

      依存症になっていくには段階があって、だいたい大きく分けて四段階から五段階の過程になる。一段階目は初回使用。僕の場合だと、アルコールを生まれて初めて酔っ払うほど飲酒したのが十歳の時だ。お正月にワインを一本飲んだ事がこれになる。「酔っ払う事」が僕の身体、特に脳にある快感中枢と言う無意識部位に刻み込まれた。つまり、脳の一部分に壊れた部分ができたのだ。二段階目は機会的使用だ。お正月、お祭り、家族や親戚の誰かが飲酒している。そんな機会があれば大人たちの宴席にちょこちょこ行き、親父の飲んでいるグラスをこっそり横取りしてアルコールを飲んだ。味なんてわからなかった、酔いたいともおもわなかったが・・・。それに両親や親戚、周りの人たちが言ってくれた。「正月やし・・・」「お祭りやし・・・」その言葉で飲んでもいいものだと理解した。そういう家系だったのか、お酒文化なのか、アルコールを飲むことに対しての考え方はある時期までは「みんな飲んでるから当然のこと。いいんだ。」と思い込んでいた。小学生なので勿論普段は飲まないがアルコールに遭遇した機会には少しだったが飲むようになった。その次の三段階目は、習慣的使用。僕のこの段階は高校生の時にディスコに週一回通っていた頃にあたる。ディスコの無料ボトル。安いウイスキーを毎週土曜日、飲んでは悪酔いしていた。
      そして習慣的使用のこの時期アルコールの耐性がどんどん形成されていく。次に四段階目は乱用。飲みたい時に飲む。そして、最終的に脅迫的使用に移項する。
      会社員になってからは「飲みたい、もっともっと飲みたい・・・」しかし身体が受け付けなくなって悪酔いしてしまう。今思うと僕はアルコールの作用で覚醒するような感覚が好きだった。
      僕の中でシラフから酔っ払う間に起きる意識の変化がある。どんよりとした雨降りからいきなり晴れになる、「カーッと」太陽が光り輝く天気のようだ。それと、何かから開放され気持ちが楽になる感覚。また、特に空き腹で飲んだときに楽しんでいた感覚がある。下腹のあたりにアルコールが染み渡る心地よさの後じわじわと酔い始め、深い酔いの中へ入っていく。僕はこれらの感覚を追い求めてアルコールを飲み続け、知らないうちに依存症という病気が進行していった。
      依存症の前につくのが、アルコール、薬物、ギャンブル、買い物などなどと違っても期間的な個人差はあるものの依存症への進行過程は同じ段階を辿る。アルコール、薬物の脅迫的使用が続くと最終段階は死である。

      泥棒ちゃうねん酔っ払いやねん

      「毎日飲み歩いて、会社も遅刻、無断欠勤、無断早退。やっぱりこんな状態ではだめだ。」
      アルコールを飲んで二日酔いになった時に考えることが多くなっていた。胸焼けがひどく、空腹の時や食後に腹痛も度々起きるようにもなっていた。しまいに真っ黒な便が出た。
      しばらくして悪酔いした時、吐血した。ビックリして、病院に行った。バリウム検査、胃カメラ検査の結果「十二指腸潰瘍」と診断された。「食道や胃、十二指腸で出血した場合、便が真っ黒になる」と医師から聞かされた。身体が弱っている。不安になった。やっぱりこのままではマズイ。親父は腎不全で透析を受けていたので心配をかけたくなかった。だから、親しい会社の先輩に相談してみた。すると「酒飲む奴は、ある時期みんなそういうふうになるんや。俺も、酔っ払って散々なことをやった。」別の先輩は「俺の年齢ぐらいになったら若い時の無理がでるで・・・」等だった。すこしは気持ちが楽になった。が、アルコールを飲む事はやめられなかった。
      「二日酔いでも遅刻、欠勤はしたくない」せめてもの思いで僕はアルコールを飲む時の駐車場をガソリンスタンドから会社に換えた。「会社で寝ていれば誰かが出勤して来たら起こしてくれるだろう」という考えだった。会社の敷地は塀で囲まれていた。例えば塀で囲まれている学校のような感じだ。コンクリートでできた塀は3メートルぐらいの高さがあった。唯一、玄関の移動式になっている扉をよじ登って社屋に入っていた。ある日いつものようによじ登って敷地内に飛び降りようとしたとき「なっ、なにしとんじゃ!」と怒鳴り声がして懐中電灯で照らされた。「僕ですわ・・・」と扉の上で固まった。ガードマンだった、僕の顔を見て社員だと気付いてくれた。「会社で寝ようと思って」と僕が伝えると「昼間に言うといてくださいよ」とびっくりした表情で返事が返ってきた。もう少しで[こん棒]で殴られるとこだった。

      このニュースの前号で紹介したが、僕が当時仕事をしていた会社は建設機械のメーカーで通称「ユンボ」といわれるパワーショベルを主に販売や修理の業務が行われていた。その重機は新車、中古車、中には購入後支払いが滞って裁判所の差し押さえ扱いの機械もあった。その他にもコンクリートポンプ車、アスファルトフィニッシャ、パイラー、ベノトなどの建設機械が数多く会社の敷地内に置いてあった。僕が入社する前には重機の盗難事件がたまにあったらしく、門扉を乗り越えようとした僕をガードマンは「そういう輩だと思った」と言っていた。同僚や上司には大笑いされた。
      建設機械にエアコンを取り付けに来る関連業者の社員とも親しく話しをするようになっていた。同年代ということもあって仕事の合間や一緒に仕事をする時は世間話をしていた。「今、空手道場に行って空手を習っている」と言う話を聞いて「僕も幼少の頃やりたかった」と言うと「今からでも習えばいいやん」と返事が返ってきた。「なんやったら、見学だけでもしてみたら」とさっそく行ってみた。道場で練習をしているところを見学した後事務所へ行くと「愛国心」の文字が入った大きな日の丸の旗が壁に貼ってあって「なんやねん、ここ・・・」と思いつつ事務所の中へ入って行った。右翼団体だった。しばらく話をして空手を習うことにした。そしてなんやわからんけど右翼団体にも入った。
      そんな頃、いつもの店で高校の先輩に会い一緒に飲んだ。その先輩は土建屋の息子で家業を継いで仕事をしていた。僕のアルコールによる話をしたらユーモアを交えて優しく説教してくれた。「おまえ、二日酔いで仕事休むなんざぁ、俺が許しても、キャシャーンは許してくれんぞ!ハハハ。」てな具合だった。でも、真剣な何かがその先輩から伝わってきた。
      それからはアルコールを飲むのは新年会、忘年会、アルコールを伴う行事などだけに飲酒をコントロールした。たまに飲み仲間と居酒屋に行ったりもしたが以前のようにブラックアウトする事はなくなった。そんな状態で一時的だったが落ち着いていった。

      元妻に出会う

      二日酔いの日もほとんどなく、会社にも真面目に行っていた頃、暴走族のグループからも離れて、落ち着いた日が続いていた。族仲間とは、たまにコーヒーを飲みにいったりすることはあった。その仲間の一人が大型の飲食店の店長をしていた。久しぶりにその店に行った時、仲間から声がかかった。「今度のクリスマスにディスコパーティーをするから遊びにおいでよ。人手がいるから手伝ってもらえたら助かるけどな・・・」という事だった。
      パーティー当日、アルコールを飲んでいたが以前ほど脅迫的に飲むことはなかった。むしろアルコールより「女の子、・・・女の子、いい子いないかなぁ・・・」ナンパしようと企んでいた。カウンターに座っている二人組みの女の子に目星はつけていたが、ホールに夢中で高校生時代にディスコ通いで身に着けた踊りで楽しく過ごしていた。広い店舗のホール中央には[お立ち台]がつくってあって、その上で順番に踊っていく。みんなが[お立ち台]に歓声をあげておおいに盛り上がった。パーティーも後半に入っていった頃、突然店の玄関から以前付き合っていた彼女が入って来た。僕の前に来るなり「会わせたい人がいる」と元カノが言うと、僕の手をつかみグイッと引っ張って店の表に連れ出した。すると車が一台止まっていて、運転席に友人がいた。友人が言った「さっき、あの娘と知り合って、話をしていたらお前の話になって、今夜お前がここにいると言ってたから一緒に会いに来たんや」との事。友達の友達は友達がつながったのだ。「珍しい事もあるもんや・・・」と思いつつ僕は言った。「パーティーはもう少し時間あるから中へ入ろう」店の中へ入ったものの、人であふれていたので後にやってきた二人の座る所がなく、僕が座っていたカウンターの椅子を提供した。僕はカウンター越しに厨房から店内を向いた。次の瞬間「あら!!」と元カノがさっき目星をつけていた女の子と話をはじめた。そして元カノが「あんたも知ってるやろ」と僕に言った。「???」僕は狙っていた女の子だけにビックリした。元カノに言われて思い出した。高校生の時、タマリ場の喫茶店によく来ていた同い年の女の子だった。四人でチャーシバキ(コーヒーでも飲みに)に行こうと話がまとまりパーティー会場をあとにした。この日から狙っていた彼女と交際がはじまった。
      この時僕は十九歳で四年後に結婚した。

      アルコール依存・ワーカーホーリック

      二十三歳で結婚して会社にも真面目に行っていた。妻は会社を辞めず夫婦共働きだった。
      親父の腎不全の状態も人工透析と本人の水分調整などで落ち着いていた。人工透析は腎臓の役割を医療器械にしてもらうというもので体内の不要な水分などを調整する。つまり尿として体外へ排出する機能を医療機器に肩代わりしてもらうというもので、血液をゆっくり医療機器に循環するので一回の所要時間は約六時間程かかった。二十数年前のことで人工透析の専門病院へ行くことが主流の時代だ。親父の場合、隔日に人工透析を受けていた。親父の病院からの帰りはほとんど僕が迎えに行っていた。その頃僕は思った。「姉は嫁いで子どもを授かっているが親父の為に僕が内孫を見せたい」その思いが叶ったのか、約一年後長男を授かった。親父は人工透析を終えて、くたくたに疲れている時でも孫を抱きかかえたり寝顔をじっと見つめたりしていた。親父の表情は嬉しそうだった。
      僕の考えることはアルコールのせいなのか元々なのかどこか狂っていた。「妻より年収が少ないのは情けない、よし転職しよう」変なプライドで考えがまとまった。
      丁度そんな時、高校の同級生から電話がかかってきた「紹介したいサイドビジネスがある」誘われるままにセミナー会場とやらに行くと羽毛布団の説明が始まった。「一ヶ月で百万円稼いでみませんか」と言う勧誘に僕は何の疑いもなく飛びついた。信販ローンを組んで五十万円の羽毛布団セットをすぐ購入した。方々に声を掛けてみた。「ええかげんににせえ!」と叱ってくれた友人もいたが最終的に勧誘できたのは一人だけだった。稼げるどころかローンの支払いだけが残った。
      別の部分ではその頃週二回、水曜日と金曜日の夜は空手の練習に出かけていた。金曜日は練習が終わると事務所でビールを飲むことが度々あった。その時、転職を考えている話をした。すると館長が僕に言った「観葉植物のレンタル業の会社を経営している。転職するんやったら、うちに来いや」と声を掛けてくれた。ただ転職したいそれだけで即決した。
      誰にも相談しなかった。転職を反対されることがいやだったからだ。しかし、実際もとの会社を辞めるとなると職場でのいろんな思い出が浮かんできた。最終日に「お世話になりました」と社員みんなに挨拶してまわった。次第にセツナイ気持ちで胸がいっぱいになって涙が出た。
      気持ちをリセットして、新しい仕事は何もかもが新鮮で楽しかった。しかし半年ぐらい経った頃、親父の容態が急変して専門病院に入院した。容態が不安定な日が続いた。お袋も二十四時間つきっきりだった。最終的に脳卒中という診断が出て、そのまま亡くなった。
      いつ頃からか人工透析を終えた親父を迎えに行くことをしなくなった事を僕は悔やんだ。
      そのあとは、しっかりと喪主を務めた。依存症ってこんな時、強いんです。災害や非常事態に依存症は強いんです。だから、二十二歳から入団した自治消防団でも先頭に立って消化活動をしていました。
      話しは戻って、それから二年ぐらいはアルコールを飲む事もあまりなかった。仕事も家庭も順調で落ち着いた日々が過ぎていた。二男が誕生して姉夫婦の家族と旅行やキャンプに行ったりもした。姉夫婦には三人の息子がいて僕の息子達と年齢も近く、子供たちが集まると五人兄弟のように仲良く遊んでいた。一見すると大きな問題もなく時間は過ぎていたのだが・・・
      僕はワーカーホーリックで自宅と職場にかなりの距離があったというのもあり、これといった趣味もないので、誘われるままにアルコールを飲むことが再発しだした。以前の会社でやっていたように家に帰らず職場で寝るという状態になった。自宅と職場にかなりの距離があったというのもあり、頻繁に自宅には帰らなくなっていった。夜遅く帰宅しても妻は晩御飯の用意もしなくなっていた。当然の結果なのだが僕はそれに腹を立て、ますます帰宅しなくなった。相変わらずアルコールを飲みながら、ワーカーホーリックしていた。
      そういう生活が五年ぐらいつづいたある日、急に会社がいやになった。やる気も全くない。「いっそ死んだほうが楽かな・・・」とさえ思った。「ほんまに、もうあかん」今まで生きて来て初めて感じた限界だった。いきなり「退職届」を出して、仕事の引き継ぎも何もせず、すぐ仕事をやめた。
      自分の事を置き去りにして会社や周りに合わせていた苦しさの限界だった。当時はそんな事を知る由もなかった。

      バーンアウト

      ワーカーホーリック、アルコール依存。自分の事を置き去りにして、周りの状況に自分を合わせ必死だった。その結果、やる気がうせ、何もかもがいやになり、何かわからない切迫感のような恐怖感のような、すごくいやな感覚から開放されたいと思い、本能的にいきなり仕事を辞めた事で「死んでしまいたい・・・」という思いはなくなったが、人と会話する事さえおっくうになっていた。
      会社からは退職金も失業手当もなかった。それなりに給料からの支払いはしていたが「お前が勝手に辞めていくのだから、事務手続きは一切しない。雇用保険を利用したかったら、自分で勝手に手続きしろ」と社長から言われた。僕は「それは、困る」と言えなかった。
      むしろ、そんな事はもうどうでもよかった。社長の顔も会社の営業車を見るのもいや。会社の事も仕事の事も一刻も早く脳裏から消し去りたかった。
      退職後、新聞やチラシなどで会社の所在地と同じ住所を見ただけで嗚咽した。
      そんな自分の状態を誰にも表現できなかった。自分の苦しみ、辛さ、いやな事を自分の内に秘め、言葉に表現して外に出すことができず、相談相手もなく、そういう自分の内面をアルコールで麻痺させる事が当時の僕に出来る唯一の方法だった。
      在職中、朝は七時頃から夜は十一時ぐらいまで仕事。日曜・祝日は返上で仕事。家族はほったらかし、自分のことすらほったらかして訪れた生きづらさだった。
      無職になってすごく楽になった。長い間呼吸を止めていて、やっと息ができた。そんな感覚に似ていた。外出もせず家でゆっくり過ごしていた。仕事からの解放を楽しむようにゴロゴロ寝転んだり「ボーっと」してみたり。
      だが、「家庭がある、二人の子どもがいる、共働きといえども無収入でこのままではマズイやろ・・・」「妻やお袋、妻の実家の両親は今の僕をどう思っているのか・・・」そんな思いが浮かんでくる。「働かざるもの食うべからず」という言葉も脳裏にうかぶ。
      しかし、何もしたくない。とにかくこのままもう少しゆっくりと時間を過ごしたい。いろんな思いがかけめぐる。すると二週間ぐらい経ったある日妻が口を開いた。「いつまでぶらぶらしているの?いくら共働きや言うても生活費は毎月決まった金額がいるのよ、あなた父親でしょ、これからどうするつもり」やっぱり僕の思っていた通り言葉が届いた。妻のその言葉に当時の僕は「わかっとるわい!」としか言えなかった。長い間僕は仕事、仕事でろくに家にいることなどなかったし、たまに帰ってもアルコールで酔っ払っている。
      素面でも夜中にしか帰宅しない僕と妻の関係はこじれていた。妻と話し合うという事など僕にはできなかった。
      長男、夫、父親、自分の立場、役割、それらの事には相変わらず縛り付けられていた。頭で意識するばかりで、いつしか立場と役割を演じるだけになっていたように思う。
      いつも心の片隅で「どうにかしなければ・・・。でも、どうしていいのかわからない・・・」
      その思いからできるだけ眼をそむけたくて、でもどうする事もできずに時間の過ぎるまま流されるしかなかった。

      都合のいいアルバイト

      退職後三ヶ月程が過ぎた頃に、この前退職した会社の先輩から電話がかかってきた。「暇にしているなら知り合いのところでアルバイトでもしないか」という話だった。まだまだ休養したいところだが「家族への面目もたつし」と早速でかけた。ビルメンテナンスの仕事だった。自由出勤で休みたい時に休める。自分の予定を事務所に伝えておくと仕事があれば連絡がくる。何もしなくても事務所にいれば妻に対して仕事をしているフリもできる。
      当然働いた時間しか給料はないが「家でゴロゴロしているよりは」と当時の僕にぴったりの条件だった。「しんどいなぁ・・・。まだ何もしたくない」という思いを押し殺してアルバイトを始めた。主な作業は、大手量販店の店内で行われた。閉店後の夜中に店舗フロアの通路や売り場の床にワックスをかけるというもので、ポリッシャーという機械と洗剤を使い、洗浄した後ワックスを塗布する。ほとんどがその作業だった。時には銀行や自動車ディーラーのショウウィンドウをスクイジィという自動車のワイパーのような物を使って洗浄することもあった。
      新しい仕事は何もかもが新鮮で、専門的な機械が少しずつ使えるようになる事も楽しかった。汚れた床やガラス等が清掃作業によって見違えるほど美しくなる。気持ちのいいものだった。それに夜の仕事なので昼間はゆっくりして夕方直接現場に行く。仕事という名目で、ウットウシイ家族とも会わなくてもすむので好都合だった。自己欺瞞で、やる気のようなものをだしていた。「妻に給料だけ渡せばそれでいい」それだけを考えていた。お金だけ手に入ればいいのだと思うようになっていた。
      この間退職した会社の社長は高級外車に乗っていた。今度の会社の社長も高級外車に乗っている。できる事なら僕も乗りたい。服も装飾品も高級品を身にまといたい。この仕事なら頑張れば出来るのではないかという妄想に支配された。
      その他に人材派遣の業務もあった。その中には治験といって、世の中に出る一歩手前で行われる新薬の人体実験をするものもあった。それも引き受けた。
      だいたいは清掃の作業をこなして行った。それからは夜も昼も関係なく仕事に打ち込んだ。
      僕たちが作業をしていた大手量販店はセキュリティーの関係で夜中の十二時から朝七時までは内部からも外部からも出入りが完全にシャットアウトされる。その時間を利用して内部で床のワックス掛けの作業を行う。その作業は毎日のようにあった。その作業を早朝終えて引き続き昼間は定休日などの別の大手量販店に移動して作業する。睡眠はその移動の時にとったり、合間の休憩の時にウトウトと少し眠るという状態だった。こんな時はすごい食欲があって六食から八食とご飯を食べていた。その頃の僕自身も三十歳ぐらいで体力的にも元気な頃だったので無理ができたのだろう。たまの休みは事務所で大宴会が開かれた。当然自宅には帰らない。たまに帰っても、出掛けに妻から「また来てね」と言われる状態だった。こうしてまたワーカーホーリックを繰り返した。

      魔法のケムリ

      仕事はキツクて大変だったが仕事にも慣れて楽しく毎日が過ぎていった。収入は満足ではないが、現場請負にして現場ごとにロイヤリティを会社に支払い、アルバイトではなく下請け業者として仕事を進めようという話も進んでいた。「そのうち収入も満足な状態にしてやる」自営業は大変だろうけど収入も仕事をこなせば増えるだろうと考えていた。「高級外車も夢ではない」という妄想もふくらんでいった。
      フロアのワックス塗布の作業は一人ではできない。作業の工程上、チームを組んで作業をする。最低三人は必要だ。現場の状況などではもっと人手が必要だ。そんな時、会社の関係業者への人材派遣の仕事で害虫駆除があった。殺虫剤で飲食店の厨房のゴキブリ駆除や家屋の畳のダニ駆除などをするというものだった。そして都合よく人材派遣ではなく派遣先の会社から「正社員になってほしい」という言葉がかかっていた。いろんなシガラミもあることだし、それなら一人でできる仕事だし、いっその事この仕事を自営業としてやっていこうと決心した。さっそく、会社に頼んで経費を立て替えてもらい、必要な機材を揃えた。今までのフロアのワックス塗布作業と並行して害虫駆除の仕事をやりだした。
      人手不足という会社の事情も手伝って仕事は溢れるほどあった。あらゆる現場に入り続けた。しかし、以前と同じパターンの自分の限界に近付いていった。なんとか持ちこたえていた。
      そんなある日の事だった。事務所で仕事の打ち合わせをした後社長と二人で雑談をしていた。けっこう時間がたった時、社長が「ええこと教えたろか・・・」となんやら封筒を僕の前にだした。糊付けされていない封筒の口をごそごそ開け、片手で持って口を下に封筒をひっくり返した。「パタパタ」とアルミホイルと小さなビニルの包みが机の上に現れた。
      見ていると、アルミホイルの上に食塩のような粉をのせ、ライターの火でアルミホイルをあぶった。粉が煙に変化した。すると口にくわえていたパイプで吸い込んだ。社長は無言で手に持っていたアルミホイルを僕に手渡した。僕はさっきの状態をまねして煙を吸った。すると、それまであった気だるいような感覚と眠気が一瞬でなくなった。十九歳の時、覚せい剤を注射したことをふと思い出した。だがアルミホイルの上にのせたのはあの時の物とは違う。感覚的にも少し違う。なんだかわからないが「すっきりするのだからいいや・・・」と思った。それと覚せい剤だとしても「いつでもやめられる」そんなふうにも思った。
      それからは夜勤まえには事務所に必ず立ち寄り「ケムリ」を吸うようになった。
      当時はそれが覚せい剤の再使用の始まりと知るよしも無かった。

      認めたくない

      (十六歳の女子高生が覚せい剤を吸引。覚せい剤取締法違反により・・・)と言うテレビのニュースを見た瞬間・・・「えっ、僕がいつも吸っているケムリのことか??」「まさか・・・」だが「もし、そうであっても、いつでもやめられる」そんな考えが頭をよぎった。「夜勤の仕事の前にちょっと吸っているだけやし、問題ない」とも思い、他人事だと気にしないようにした。あまり寝ていなくても夜勤の仕事がこなせる。いつもと同じ現場の作業がはかどる。疲れも吹っ飛ぶ。「こんないい物はない」「これだけは失いたくない」と思っていた。
      だが、「魔法のケムリ」を使うようになって数ヶ月たったある日の事。人材派遣の業務部門で健康診断が必要になり、二週間後に指定病院に行って検診を受ける事になった。僕と同じように魔法のケムリを使っている一部の同僚達は「ひょっとして、検査で何か反応でも出たらヤバイ」と、ピタリと使うのを止めた。「そうやなぁ、僕もそうするか」と考えた。
      それから三日ぐらいは使わずに、なんとか過ごしたのだが、「訳もなく使いたい」僕のその状態とは裏腹に同僚達は使っていない様子だ。しかし僕はなんかわからんけどむしょうに魔法のケムリが吸いたくて仕方ない。「なんでや・・・?」同僚達は何事もないように過ごしている。僕は「もうアカン、ちょっとだけ吸おう」と、誰もいなくなった会社の事務所に行き、こっそり魔法のケムリを吸った。すると、それまであった「魔法のケムリを吸いたい」という強迫観念が「すうーっ」となくなり、なんとも言えない安堵感が訪れた。
      少しだけと思って吸い出した「ケムリを吸う行為」がとまらない。「もうちょっと、もうちょっと」と、止めようと思えば思うほど止められない。ふと「今、何時なんや・・・?」と我に帰った時、ケムリを吸い始めてから、すでに六時間ぐらいがすぎていた。それでも僕は思った「本気で止めようと思えば止められる」と、そのままケムリを吸い続けた。
      結局、健康診断は何の異常もなく「健康である」と医師から診断の結果がでた。ひとまず安心した。
      その後も、大手量販店の床面清掃、ワックス塗布の仕事は続いていた。そして、ケムリを吸いに、いちいち事務所に立ち寄るのが面倒になり「魔法のケムリ吸引セット」を常に持ち歩くようになった。その吸引セットは誰にも見つかってはならない。吸引頻度が増すにつれ「これは、覚せい剤ではない」と否認しながら、どうやって上手に隠してこっそり使うか・・・。仕事の事より、その事を気にするようになっていた。
      作業の合間の休憩が待ちきれず、同僚に「腹痛い、トイレに行ってくる」と顔をゆがめて演技をし、トイレに入って長時間、魔法のケムリの吸引に夢中になっていたら「おい、下痢か?・・・大丈夫か?」と同僚がトイレまで声をかけに来る始末だった。

      借金

      その頃、仕事のビルメンテナンスはアルバイトの状態もあり、それとは別に自分一人で自営業として有害害虫駆除の仕事もやり始めていた。有害害虫駆除とは、飲食店が閉店した後、夜中に厨房などのゴキブリを強力な殺虫剤で駆除して回るのが主な仕事だった。時には民家のダニ駆除なんかも手がけた。
      単にアルバイトで清掃の仕事に行くのは、いつもいつも、決まった現場に決まった時間に定期的に行く。それがいや。全く作業を知らない人数合わせの作業員も常にいる。それがいや。作業の前準備から後片付けまで、いちいち皆に指示を僕がする。それがいや。給料はびっくりするぐらい安い。それがいや。そのような理由でビルメンテナンスの清掃員のアルバイトとして次第に仕事をキャンセルするようになっていった。そんな事と並行して「魔法のケムリ」の使用頻度は増えていった。
      仕事はそんな状態なので、収入はもちろん無いに等しい。妻に渡していた給料はほとんど渡せなくなっていた。働いているフリをして、その場しのぎにサラ金から借りていた借金も、みるみるうちに膨らんでいった。また便利な事に、覚せい剤の購入代金はツケがきいた。だから、薬代も溜まって多額になっていた。「どないかせな・・・」そこで思いついたのが「サラ金より低金利でお金を借りて、覚せい剤のツケを含めて借金の整理をしよう」「一つにまとめれば返済が楽になる」という事だった。それは、「覚せい剤の入手が途絶えてしまうのではないか」という不安からの考えだった。だから特に薬代のツケを優先的に支払う必要があった。何よりも覚せい剤を使う事が一番大切なことになっていたのだ。
      早速、銀行の窓口へ融資の申し込みに行ったが、門前払いに近い状態で断られた。信販会社の多目的ローンもサラ金より少しは金利が低いものの、あまり代わり映えしない。「どうしようか」と、あっちこっちで調べた。すると、国民金融公庫なら個人経営者に向けて低金利の融資をしてくれる事を知った。だが、詳しく調べてみると国金からお金を借りるには、融資希望額と同等の自己資金が必要。保証人が必要。などの条件がある事がわかった。それでもなんとかして借金を整理する必要があった。
      とりあえず、清掃会社の社長に相談してみた。すると、すんなり保証人になってくれると返事をもらった。自己資金については「現金を持って融資の申請に行くのではなく預金通帳に記帳してあるのを持って行くだけだ」とアドバイスまでしてくれた。それからは現実の融資に向けての準備に奔走した。そして、難なく融資を受けた。
      だが、その借金で得た多額の現金を手にした時「狂気」が僕を支配した。サラ金への返済はどうでもよくなった。いの一番にネタ屋の薬代のツケを精算した。「融資が受けられたお祝いや」と訳のわからん口実で知人を大勢集めて祝杯をあげ、大盤振る舞いした。また、当時は珍しい基本料金一万五千円の携帯電話を持つようになった。結局、元あった借金がほんの数日で倍以上に膨れ上がった。

      邪魔なもの

      今度は人材派遣の業務で福井県に二ヶ月間の出張が決まった。とある大手企業の大型機械を定期点検する仕事だった。僕が行く事になったのは工業高校を卒業していたのと、建設機械の修理をしていたという経験からの事だった。
      現地へ向かうのは夕方までの時間帯にJRの「雷鳥」に乗った。その道すがら、携帯電話が鳴った。珍しく妻からの電話だった。「どこにいるの?」と、僕は、ありのまま福井県に二ヶ月間の出張に行く旨を妻に伝えると「何考えているの!相談ぐらいしてよ!いくら仕事やからって、いい加減にして!」と大声で怒鳴られた。そう、僕は当時ほとんど自宅にも帰らず、特に妻には何も言わなくなっていたのだ。また、日ごろ僕が乗って出ている自動車が自宅にあるのに、旅行カバンと下着などの着替えがない事に妻は気づいたのだろうと思った。「今日は日曜日やから週末に家に帰る」とだけ妻に言って、強引に電話を切った。が、それから鉛を飲み込んだように僕の気持ちは落ち込んだ。しばらく「ぼー」っとしていたら降りるはずの駅を乗り過ごしてしまった「あっ、やらかしてしまった。宿泊先に午後七時までに集合なのに・・・かなり遅れてしまう。仕事の打ち合わせかも知れないのに・・・」とりあえず引き返そうと、列車がかなり走った後、次に止まった駅で反対方向に向かう列車に、とにかく飛び乗った。「宿舎に電話しようか・・・どうしようか・・・」と思いつつ、不安と焦りが入り乱れた思考の、グリグリ状態で車両の連結部のデッキに「ぼー」っとして壁にもたれて立っていたら、車掌さんがやって来た。「切符を拝見します」と声をかけてきた。「弱り目に祟り目やんけ・・・」と思いながら自分の切符を差し出した。案の定「この切符ではダメです」と言われたが、乗り過ごして引き返そうとしている事を伝えた。車掌さんは僕の切符を見たまま、少し間をおいて「・・・ここにいてください。絶対、座席に座らないでください」と切符を返してくれた。見て見ぬふりをしてくれた。「ほっ・・・」と胸をなでおろした。とにかく宿泊先へ向かった。列車を降りた駅からはタクシーに乗った。そして、三十分ぐらい走ったところの目印に聞いていたバス停に降り立った時、反対車線側から「おーい、こっち、こっち」と声が聞こえた。元請けの知っている作業員が大きく手を振って出迎えてくれた。「乗り過ごしてしまって・・・」と伝えると「ああ、そうやったん。今、歓迎会やってるから」と返事がきた。それと「電話ぐらいしておいでよ」と言われた。僕は「わかっていたのですが・・・とにかく早く向かおうと思って」と先に言い訳をした。すると「・・・遅れようと思ってした事ではないやろうから。まあええ」と返事をして、軽く流してくれた。そこから路地に入ってすぐの所にバーべキューをしている人たちが見えた。そのなかの一人が「ようこそ、いらっしゃいませ」と挨拶をしてくれた。出張先の寝泊りは民宿と契約してあった。そのご主人だった。
      次の日から仕事が始まった。新しい環境は新鮮な気持ちにさせてくれた。単なる派遣の
      一作業員なのに、まるでその大手企業の正社員にでもなったかのように、僕の気持ちは浮かれた。
      順調に数日が過ぎた頃、預金残高が気になった。国民金融公庫への返済で預金からの引き落としがあるからだ。現場までは送迎バスがあり、宿から十分ほどの距離だった。市街地までは結構時間がかかる、銀行の用事も市街地までいく必要があった。僕の記憶では今回の引き落としの出来る残高があるはずだった。そして、週末になって自宅へ帰った。
      一週間ぶりの我が家は新鮮だったのだが、居間にいる家族を避けるように僕は一人寝室にいた。そこに妻がやって来た。「これ、見て・・・」とだけ言うと、妻は無表情で小さなメモ書きを僕に差し出した。手にとって見ると、幼い息子の字が書いてあった。「こくにんきんにうこうこ」やっと書けるようになった平仮名だった。国民金融公庫の催促の電話に幼い息子が出てメモしてくれたのだ。僕は全身の力が抜けて崩れてしまいそうになった。
      そんな自分を誤魔化すかのように、妻には「連絡しとく」とだけしか言葉がでなかった。少しの間そのメモ書きを見たまま身動きできなくなった。やりきれない苦しい気持ちをどうしていいのかわからず「魔法のケムリ」を吸った。一瞬で気持ちが楽になった。
      僕の中の優しさ、家族を思いやる気持ち、正気、すべてが邪魔になった。

      世代間連鎖

      夜の名神高速を敦賀に向けて車を走らせていた。豊中ICあたりから自宅の妻と携帯電話で話しをしながらの走行だった。
      「・・・今どこまで走ったの?」「ん・・・今は・・・京都東を過ぎたとこ・・・。次は大津。・・・」こんな具合に別に何の話をするでもなく。結局、敦賀出口の手前まで妻と会話をしていた。なぜか電話を切りたくなかった。しかし、「もう、料金所やから・・・それじゃあ・・・おやすみ・・・」僕は何かを振り切るかのように自分に少し無理をして切りたくない電話を切った。すると次の瞬間、寂しさが襲ってきた。ただ、耳元に残る受話器の違和感が、ほんの少しの慰めのように思えた。高速道路を出て国道二十七号線を少し走り、宿舎がある海沿いの道路に車の進路を変えた。程なくして宿舎のガレージに車を止め、ターボエンジンの余熱を冷ます間、僕の気持ちを整理した。
      二ヶ月の福井県への出張中、週末に一時帰宅した時の一コマである。

      ギクシャクしていた夫婦仲もこの日は少し違った。実はこの日の昼間に二人の幼い息子と妻の親子四人で自宅の近くにある川に魚とりに行ったのだった。
      ビニルパイプと針金、ストッキングで魚をすくう網を作っていると「おとうさん、なにつくってるん?」と下の息子が尋ねてきた。「魚すくう網作ってんねん。みんなで川へ魚すくいに行こか」と答えると「やったー!」と息子は喜んだ。昼食もそこそこにお父さん手製の網を二人の幼い息子はそれぞれが手に持って川へ出向いた。そして、父親と息子達が楽しそうに「きゃーきゃー」と川の中で魚を追いかけている光景を妻は川岸から眺めていた。日常の僕は仕事仕事で自宅にはめったにない。休日も家族と過ごすことがほとんどなく夫婦間の会話は勿論ない。この日は父親と息子が川で遊ぶ姿を見て、ほんの少し妻は安心したのかも知れない。それとは別に、不思議な事に僕自身の幼い頃にも親父が作ったブリキ製の船を僕の親父と浮かべたその川原と同じ場所だった。しかも僕の親父はアルコール依存。僕は薬物依存。世代間で繰り返される生きづらさの連鎖なのでしょうか。

      仕事依存から薬物依存へ

      そうこうしているうちに二か月の出張も終わり自宅に帰った。さっそく人材派遣の次の仕事が舞い込んだ。阪神大震災の影響で崩れた屋根瓦を軽量瓦に葺き替えるという仕事だった。
      当初は自宅から尼崎市や川西市の現場に行くことが多かった。しかし現場が神戸市内や垂水区あたりになってからは神戸方面に向かう道路が大渋滞で、朝五時頃に大阪を出発しても神戸の現場に着くのは昼過ぎになるような状態だった。この事で大阪から神戸を通り過ぎて姫路まで行きそこに宿を設け、そこから神戸方面の現場に出向く事が決まった。元請けからの工事発注がなくなるまでという出張期間不明の仕事になったのだが、「ヤケクソ」になっていた僕は誰も行きたがらない出張も「ほいほい」と引き受けた。にわか職人十人ほどのグループで現場の都合により低料金の宿を転々とする。ひたすら仕事さえしていればそれで良かった。仕事依存のお陰で何も考えずに済んだ。覚せい剤の欲求もなかった。
      食う、寝る、遊ぶの繰り返しで長期の出張も終わり、自宅に帰ったとたん現実が僕にのしかかった。
      「普通に・・・自然に・・・そして優しくしたい・・・」家族を思う気持ちとは裏腹に、妻といると些細なことで口げんかが絶えない。お袋には怒鳴りつけるようにしか言葉が出て来ない。家族と一緒に居たいのに、居られない。そんな状態だった。
      昼間は妻もお袋も仕事に出かける。子供達は妻の実家から越境通学。唯一昼間の誰もいない自宅が僕の居場所だった。もう仕事も何もしたくなかった。会社には「当分都合がつかないので次に仕事を請けるとき、こちらから連絡する」そう伝えて何も仕事をしなくなった。またバーンアウトが訪れたのだった。丁度そんな時、ほとんど連絡がなかった以前の職場の先輩から電話が入った。「白のジャケットを入荷したから取りにおいでよ」(覚せい剤が手元にあるよ)という意味なのだ。さっそく受け取りに出向いた。先輩宅も昼間は家族が居ない。そこで久しぶりに「魔法のケムリ」を吸った。一瞬のうちに何もかもどうでも良くなって精神的にも身体的にもウソのように軽くなった。それからは頻繁に先輩と連絡を取る毎日が始まった。昼間、家族がいない自宅は天国のようだった。
      薬物使用に明け暮れながらも「これでいいのか?」「どうなるのか?」そんな言葉が度々頭の中を駆け巡った。そんな時は薬を使った。薬は僕を別世界へ連れて行ってくれる大切なアイテムだった。「どうしても薬を手放したくない」その思いは一層強くなっていった。
      昼間は自宅で薬を使う以外何をするでもなく過ごし、夕方になれば家を出る。その繰り返しの日々だった。そして薬物依存症は確実に進行していった。

      壊れていく頭

      請負の仕事も全くしなくなって会社への連絡もしなくなっていた。ところが借金の催促の電話は鳴りっぱなし。催促状も山のように届く。「なんとかしなければ・・・」と考えるばかりで時間だけが過ぎていった。そんな時「よし、アルバイトを探そう」と衝動的にアルバイト情報誌を買ってみると、(自家用車持込優遇)という広告雑誌の配達のアルバイトに目が止まった。(がんばれば一ヶ月三十万円可)とも書いてある。「これや!持っている軽トラックを持ち込もう」。さっそく電話してみるとほとんど電話の会話だけで仕事の契約がとれた。「明日にでも軽トラックで事務所に来てください。できるならすぐに業務にとりかかってもらってもいいです」と先方の答えが返ってきた。その通りに事務所に行くと免許証のコピーを取って僕の連絡先電話番号を用紙に記入しただけで「この地区をお願いします」と簡単な地図を手渡された。さっそく準備をして作業にとりかかった。広告雑誌を何冊か持って一軒一軒丁寧に家を訪ねて手渡して回った。初日の配達はそこそこに自宅へ帰った。
      家族と晩御飯を食べながら「新しくアルバイトを始めた」と妻に話をした。忘れるぐらい久しぶりに穏やかな一家団欒のひと時だった。僕の思いは「仕事をしだして家族にも申し訳がたつ」「借金もなんとか返済のめどがついた」そんな安易な考えで勝手に安心していたのだった。そして配達作業を始めて何日目かの事。午前の作業を終えてゆっくりと昼飯を食べていた時に、たまたま隣の地区の配達員を見てびっくりした。ホームセンターなんかで売っている手押しの台車に広告雑誌を山積みにして、なおかつ走り回っている。そして見る見るうちに配達しながら遠くへ消えてしまった。「なんちゅうヤツや・・・僕が一日に配達するぐらいの分量を数十分でやってしまいよった・・・」それでも僕は思った「あの人は慣れているし、配りやすい地区なんや」と言う事は・・・「初めて配達する僕にはあえて、ややこしい地区を担当させられたんやろか・・・」被害妄想だった。しかし当時の僕は被害妄想なんか解ってなくて、そのくせ変な意地と弱気で「僕に、いやがらせしとんのんかい!」とはオクビにも出せなかった。しかし、その後は変な意地のお陰で一ヶ月ぐらいかかって、やっと担当地区の配達を終えた。それでもなお「嫌がらせされるような所に作業賃金を貰いに行くのはケッタクソ悪い」と二ヶ月ぐらい放置していたが「あれだけがんばって配達したんや、せめて五万円ぐらい貰えるやろ、放っとくのはもったいない」そう思い、「いくらか収入があるから何かの足しになるやろ」とカッコ良く妻にお金を取りに行かせた。帰ってきた妻に金額を聞いて唖然とした「一万三千円程あったわ」
      つまり、普通の思考の人なら一日から二日もあればできる作業を一ヶ月もかかっていたのだった。今でこそ笑い話なのだが当時の壊れていく頭ではそんなこと解るはずもなかった。

      被害妄想

      広告紙配達のアルバイトをしても、普通の人が一日から二日で出来る作業を僕は一か月程もかかっていた。「俺を都合よく利用しやがって・・・」「俺にだけシンドイ思いをさせやがって・・・」と被害妄想と現実が混乱していた。覚せい剤乱用により徐々に頭が壊れていたのだ。その頃、ネタ元(薬の入手先)の先輩はテレクラで働いていた。僕は従業員でもないのに、そこの事務所に入り浸るようになっていた。先輩にツケで溜まった薬代が払えない、だが薬が欲しい。昼間は家族のいない自宅で過ごし、夜は従業員のフリをしてテレクラの手伝いをしていた。報酬は薬だった。

      そんなある日、落ち着いた口調で妻から「大切な話がある・・・」と言われた。「・・・なっ、何やねん改まって・・・」いろんな事が僕の頭の中を忙しく駆け巡った。「借金の事か・・・」「仕事の事か・・・」「まさか薬がバレタか・・・」頭の中がグリグリになった。
      おそるおそる話を聞いてみると僕の姉の事だった。「お姉さんのご主人から私の会社に電話があって・・・とにかく、お姉さんの大切な話やから私と直接話がしたいとお兄さんが言っていた」と妻が言った。僕の思考は「兄はなんで俺に直接言わへんのや・・・。ははーん、義理の兄と妻の仲がアヤシイぞ・・・」嫉妬妄想に支配された。
      僕は答えた「話の時、俺も一緒に行く」義理の兄と妻の関係を確かめる為にそう言ったのだった。早速、義理の兄の職場まで話を聞きに行った。義理の兄は挨拶もそこそこに、応接室のソファーに座った途端に口火をきった。「あいつ、体調悪いから医者にいったらガンやった。・・・状態も深刻らしい」姉がガン?そんな事はない。と僕は強く否認した。三十分程話をして帰路に着いた。「気になるのはお兄さんの表情やわ・・・」正気の妻には義理の兄の深刻さが当然のように伝わっていたのだった。しかし、妄想的な狂気の僕は「そんな事知るかえ!」とまで思っていた。
      被害妄想にはいろいろあって、「一人で電車に乗っていて、車両のどこからか笑い声が聞こえると{自分が笑われている}」と思う被害妄想の他「いつも誰かに尾行されている」という追跡妄想。「あらゆるところでカメラで監視されている」「窓から誰かがコッソリ覗いている」「盗聴器がしかけてある」という注察妄想。「私は神様で、なんでもできる」という誇大妄想。「恋人、パートナーが浮気をしている」という嫉妬妄想。等と僕は分類している。

      リセットしたい

      たまたま、薬を使わない日が何日か続いた時の事だった。僕の思考は被害妄想なのか現実なのか混乱していた。得体の知れない恐怖が僕を包み込んでいた。自分の周囲に意識を集中していた。電話がかかってきただけで「びくっ!!」と驚く。自宅の周りに何者かがいるんじゃないか。「誰やねん・・・何やねん・・・訳解らん・・・こわいんじゃ!」と誰にも話せず、自分の中にかかえこんだものは、「恐ろしい」得体の知れない恐怖になって膨らむばっかりだった。とんでもなく、恐ろしかった。
      「この、とんでもない恐怖から解放されたい・・・」しかし、どうすればいいのか解らない。「そうや、薬使えばいい」手元にあった薬を使った。むさぼるように使った。すると得体の知れない恐怖は消えた。
      覚せい剤を使うと薬理作用で寝ない。(寝られない)ご飯も食べない。(食べられない)三日、四日、ともすれば一週間ぐらいは何も食べず、寝ないで過ごす。薬の効力が切れると、二日間ぐらいぶっ続けで爆睡する。目が覚めると空腹を満たすために、飢えたオオカミが獲物を食べるように、ご飯にガッツク。その繰り返しが続いた。
      ところが次に現れた症状は薬を使わずにいると寝られない。ご飯が食べられない。しかし薬を使うと寝られる、寝る前に薬を使い眠る。薬を使うとご飯が食べられる、ご飯を食べる前に薬を使い食事をする。そして、薬を使うと素面のような落ち着いた精神状態でいられる。体内の薬が少しでも薄くなるとイライラして狂気が支配しようとする。つまり、ある一定の分量の薬を常に体内に保ち続ける必要があった。「生きるために使う」そんな感じで、薬を手にいれ、泣きながら使う。そんな状態が結構続いた。疲れ果てて、もうクタクタだった。「薬を止めたい」心の底から思った。すると、壊れた頭がひらめいた。「転職や!」以前にも長期出張した時や仕事を変える事で薬を使わずに済んだ時期があった。今のように仕事をしているのか何なのかわからん状態を止めて、会社員になって真面目にやれば給料も月々入ってくる。「薬もきっと必要なくなるはずや」「借金も返済できる」早速、妻に「会社員になる」とだけ話をした。そして、すぐ職探しをした。すると、なぜか兵庫県のとある会社へ意識がいった。どうしてもその会社に就職したいと思った。その会社に引き寄せられるかのように会社を探しに出向いてみたが社屋は見つからなかった。数日たった時、「言ってた会社、求人募集してるわ」妻が求人広告を僕に見せた。すぐに会社に電話をして面接日を決めた。と、この間、三週間ぐらいは不思議なことに薬は使わなかった。
      しかし面接当日、薬の欲求が急にやってきて薬を使ったのだが・・・面接から三日目に「採用です」と電話が入った。そして数日後、初出社した。「これで、すべてやり直せる・・・」そう思い仕事が始まった。
      それから三か月、五か月と目新しい初めての仕事は新鮮で薬も全く必要としなかった。「・・・やり直せる」そう思うと嬉かった。定期収入もあり妻にも申し訳がたつ。そんな理由づけで借金のことを妻に打ち明けた。金融会社7社から借入があるのに、すでにばれていた会社を含め、5社から借金しているとしか言えなかった。このことは、ある弁護士さんに聞いたのだが多重債務者の特徴で借入の会社をすべて言わないそうだ。僕もそのうちの一人なんですが・・・けれども最終的に妻に隠しきれず借金に関しては金額と借入している会社はすべてバレテしまった。そして妻の父親にも借金の事がバレテ、なんと義理の父がすべて一括返済してくれた。「申し訳ない・・・」その思いから「今度こそ絶対やり直すんだ」改めて決意した。

      止められない

      新しい会社で半年ぐらいが曲がりなりにも順調に過ぎたある日、自宅にネタ元の先輩から電話が入った。「どうしてるんや?連絡ないから心配しとったぞ・・・」「借金もすごいし会社に就職したんです」そんな会話の最後に「ジャケットはいつでも渡せるから・・・(ジャケットとは薬の事)」と先輩は言った。「必要になれば、また連絡します」僕はそう言って電話を切った。
      それから数日はジャケットが気になって仕方ない。結局先輩の働いているテレクラの事務所に行った。そして、「今度こそ上手に薬をコントロールして使おう」と思い、薬を入手した。週一回だけ薬を使う。コントロールできたのは三週間ほどだった。それからは、できないコントロールを試みながら連続使用が「また」始まった。今度はとうとう幻聴が聞こえだした。 風呂に入っていると、職場の上司が「あいつ、風呂に入っとるぞ」すると女性社員が「そんな声で話したら、聞こえますよ」と風呂の窓越しに聞こえた。「こいつらやったのか、付きまとっていたのは・・・」でも次の日会社に行くとなぜか「本当は違うんじゃないか・・・?」と僕は誰にも何も言えない。自動車を運転していると「誰かが僕を尾行している」「襲われるんじゃないか・・・」。薬を使っても、使わなくても、訳わからん。でも薬の使用が止まらない。使いたくない。使いたい。止められない。けど止めたい。どうしたらいいのか解らない。

      妻にカミングアウト

      自宅の部屋には隠しカメラと盗聴器が仕掛けてあって、窓からは覗かれている。そんな物騒なところで話しをする事など出来ない。「そうだ、お寺に行こう。そこなら安全なはずだ」と思いついた。「大切な話がある」とだけ妻に伝え、近所にあるお寺に妻と一緒に出向いた。そこにある休憩所のベンチへ座り勇気をふりしぼって話をした「・・・じっ、実は・・・かっ、覚せい剤が止められない。どうしていいのか解らない。助けてほしい・・・」妻は少し驚いた様子だったが、大粒の涙を流しながら返答した。「そのせいで、変になっていたの・・・?」その後は何をどう話をしたのか覚えていないが、カミングアウトをした数日後、一冊の本が隠すように置いてあった。タイトルは「薬物依存」。その「薬物」という文字が僕は気になって仕方ない。妻の居ないのを見計らって、こっそり読もうとするが僕の壊れた頭では意味が理解できない。でも、なんとか二週間ぐらい掛かってやっと本を読み終えた。ボンヤリと解ったのは「著者も覚せい剤を使用して、止められなくなった。しかし今は十六年間薬を使っていない」ということだった。しかし「僕が一日も止められない薬を十六年も止められるはずがない」とも思ったが、本の最後のほうに住所録があり電話番号を半信半疑でダイヤルした。本当に電話が通じた。関東地方にあるダルクに相談に行く事を勝手に決めてから妻にお願いした。「つぎの休みに茨城県まで連れて行ってほしい」僕の壊れた頭では新幹線の乗り方すら解らなくなっていたからだ。妻は面談に付き添ってくれた。一九九七年十月十二日の事だった。

      NAってなんや?

      朝7時に新大阪駅で新幹線に乗る?自宅から新大阪駅まで行くのには一時間はかかる、逆算すると朝五時には起きなくてはならない。そんな朝早くに起きられない。「いつものように薬を使って寝ないでいよう」と考えた通りに薬の力を借りて茨城県の結城ダルクへ相談の面接に出かけた。「面接なら身なりを整えなくては・・・」パリッと三つ揃えのスーツを着て行った。
      京都駅を過ぎたあたりから「なぞなぞ妄想」が止まらなくなって、持っていた手帳に次々と文字を書き始めた。まるで何かに操られるかのように、とめどなくペンが動いた。名古屋駅に着き、降りる乗客を見て「あの人は、なぞなぞに答えられないから降りていくのか・・・」そんなふうに思っていた。東京駅に着くまで妻との会話はなかった。
      東北新幹線に乗り換えてからは、後部座席の乗客が僕の座席の背もたれにヤナギ刃包丁を刺し込んできている。シートにもたれた瞬間に「刺されるのではないか・・・」という妄想で全くシートにもたれる事ができなかった。小山駅に着き新幹線を降りる時、勇気をふりしぼって後部座席をのぞいてみたら誰もいなかった。被害妄想と正気が混乱してとにかく恐ろしかった。こんなふうに妄想にはとんでもないストーリーがあるのですが僕に残されたほんの少しの正気がそんなストーリーを誰にも語る事をさせなかった。正気の妻からすると手帳に何を書いているのか、なぜ座席のシートにもたれずにいるのか理解できなかっただろう。それでも同行してくれた。そして結城ダルクでの面談が終わり、壊れた僕の記憶にかすかに残ったのは「NA」だった。NAは「薬物依存」という本にもあった。NAは大阪市内の保健所でも「薬物を止めたい人が集まる所」と聞いた。「NAってなんやねん?」その疑問だけが残った。

      起爆剤

      帰阪して、会社には真面目に出社していた。被害妄想もほとんどなく、不思議に落ち着いた日々が過ぎていた。ダルクでの面談をきっかけに「絶対に覚せい剤は使わない」そう心に決めた。ただ「NAってなんやねん?」この疑問はつづいていた。「明日行ってみようか・・・」そう考えて仕事が終わると居酒屋へ行った。そして次の日も、その次の日も居酒屋へ行った。次第に「酒飲んでるだけやから別にええやん・・・」「このまま、この調子で覚せい剤も使わずに済みそうかも・・・」と思った。それまでは会社の近くの居酒屋に同僚と行く事が多かったが、この頃は自宅に近い所を一人で飲み歩くようになっていた。マイカー通勤で相変わらずの飲酒運転だった。夜中の二時を過ぎると飲酒検問が終わる。「事故さえ起こさなければいいんだ」十八歳で自動車免許を取得してから、ある日を境に続いていた悪い習慣だった。
      いつもの居酒屋でほろ酔いになり次は行きつけのラウンジに行く。店のママや女の子と会話したりカラオケやらでおおいに盛り上がり、夜中の三時頃帰宅する。寝静まった自宅に帰り「はぁ~」とため息をつく。その繰り返しが続いていくと今度は二日酔いで会社に遅刻。仕舞いには欠勤。それでも居酒屋とラウンジ通いは続いた。
      変な話だが飲酒運転はするが路上駐車はしなかった。「レッカー移動で警察に自動車を持って行かれたら・・・」という不安から必ず時間貸しのコインパーキングに車を止めていた。いつものように酔っぱらって自宅に帰ろうと車を止めていたコインパーキングに行くと自分の車がない。「あれ・・・?いつものここに止めたはずなのに・・・」「車を盗まれたか・・・」「わからん・・・」数か所あるパーキングを回ったが見当たらない。何回も行ったり来たり。仕方なくタクシーで自宅に帰った。次の日いつも駐車しているコインパーキングに行ってみると車はあった。ブラックアウト状態なのに「酔ったせいだ」ぐらいにしか思わなかった。
      またある日、すでに日課となった居酒屋とラウンジ通いからの帰り道のことだった。繁華街から山奥の自宅への道路はドライブウエイのようなカーブが多くあり、元暴走族の僕は酔っぱらっても運転には自信があった。そんな自分の車をアオッテ(車間距離を詰めて後部にぎりぎりに)くる車があった。バックミラーに映った後続車を見ながら「なんじゃー、負けへんぞ!」と僕はその挑発に乗った。猛スピードでカーブをドリフト(車体が横滑り状態)で「キッ、キッ、キー」とタイヤをキシませて走るが後続の車はぴったりとついてくる。興奮した僕は自宅を過ぎてもなお猛スピードで走り続けた。走りなれたこの道で引き離せない自分に苛立った。そして大きな深いカーブに差し掛かってドリフトで走りぬけようとした時、とうとうハンドル操作を誤った。タイヤが大きくスリップして「グルグルグル!」と車がスピンした。次の瞬間、車内の物という物が車の後部へ吹っ飛んでいった。車体の後部から道路脇のコンクリート壁に激突したのだった。一瞬「・・・なっ、なっ、なにが起きたんや?」訳わからなかった。ほどなくして「やってしまった・・・」自爆事故を起こしたことに気づいた。運転席の窓越しに気配を感じ「ボーっと」目をやると人影があった。ドアは普通に開けることができた。「・・・大丈夫か?」誰かが声をかけてくれた。後続車の運転手だった。そして、僕はゆっくりと車を降りた。グシャグシャに壊れたマイカーを見て「なんでや!こんな事になるはずがないのに・・・」とさえ思った。
      とにかく、このままの状態で車を放置できないと思い。後続車の運転手に手伝ってもらいレッカー車を手配して自宅まで壊れたマイカーを移動した。次の日は会社を休んで修理の手配を済ませ、いろいろ手伝ってくれた後続車の運転手の職場を聞いていたのでクッキーの詰め合わせを持ってお礼に行った。それから急に疑問が湧いた「なんであれだけの事故やのに、かすり傷ひとつなかったんやろ?」「ボンネットから激突していたら死んでいたかも知れない」という事は「僕は生かされてるのか・・・?」そう思うと、焦燥感のような感覚と共に「NAに行きたい」という気持ちが強くなった。「場所がわからん。どんなところなのか。どんな奴がいるのか」という不安もあった。そこで思い出したのが大阪市内の保健所だった。早速電話をしたら、丁寧に住所と最寄駅からの道順まで教えてくれた。その通りに行ってみるとミーティング会場があった。

      自暴自棄

      「どんな奴がおるんやろ?」ミーティング会場に入るのはすごく怖かった。「ミーティングって何話するんやろ?」と緊張して入口にいたら誰かやってきた。「ここはNAですか?初めてなんです」と言うと「どうぞ、お入りください」と丁寧に椅子に案内された。地図や資料をもらった。やっと読める地図が手に入った。緊張したまま一時間のミーティングは終わった。「はじめまして」と握手され、ガバっと抱きついてくる「なんやねん気色悪い」と言う事もできず、ハグという習慣のない僕はびっくりした。けれども疑問だった「NA」に参加できた喜びは大きかった。それからは、もらった地図をもとにミーティングに参加した。そんな時期、突然「妻から離婚してください」と言われた。しかし僕は(薬物を止めさせるための脅しやな)と思った。出てきた離婚届を見て「おう、わかったわい。離婚したら!」と逆切れして用紙に署名捺印してたたき返した。(どうせ脅しや、離婚なんてようせんは)としか僕は思わなかった。しかし、それから数日後、自宅に帰ると本当に妻と子供の姿がなかった。テーブルに手紙だけがあった。「今日、離婚届を市役所に出しました。元のあなたに戻ってください。今は一緒に暮らすことはできません・・・」こんな内容だった。「えっ、離婚?ほんまに出ていきよった・・・」表現できない複雑な気持ちになったが、その気持ちはすぐに怒りへとかわった。そして強烈な薬物の欲求がやってきてミーティングに参加した後に使った。程なくして代車にしていた軽トラックの鍵がなくなって会社にもミーティングにも薬物の入手にも行けなくなり、おまけに体力も衰えていたので、一週間ぐらいの間ほとんど寝ていた。すると、会社の総務部から電話が入って「これからどうするのか」という問いに「退職します」と即答した。そしたら、また不思議なことに軽トラックの鍵が「ポロン」と出てきた。数日後、退職届を出した。
      「もう、何もかもどうでもいいや・・・死んでもいい・・・」ヤケになって、それからは以前にも増して死に物狂いで薬物を使った。

      薬の作用

      部屋の窓を見ると、外は暗く夜だった。耐熱試験管を八センチぐらいにカットしてタバコ一本サイズのアルミパイプをヤスリで削り、サンドペーパーで磨く。薬の吸引器具の製作に没頭していた。ふと窓を見ると、外は明るかった。また器具作りに没頭していると、窓の外は暗かった。覚せい剤を大量に摂取しながら四~五日間寝ずに作業に没頭していたのだった。時間の感覚がおかしくなっていた。薬の作用で一日が一時間ぐらいにしか感じないのだ。「スピード」と呼ばれる由縁なのかも知れない。そしてその後、薬理効果が薄れると、二日間ぐらい「超爆睡」。目が開いても「ここはどこ?」「わたしは誰?」「今はいつごろ?」「どういう事?」訳解らん状態で一点をみたまま長い時間ほんの少しずつ意識が回復するのを待つ。「・・・そうや、寝てたんや」と思い出す。なんとか身体を起こす。次にやってくるのが、とんでもない倦怠感。身体全体、自分の周囲の空気でさえ、とてつもなく重く感じる。そして空腹感が襲ってくる。飢えたオオカミがヨダレを垂らしながら獲物をむさぼり食うかのように、ご飯を丼鉢三杯ぐらいは「ぺろり」と飲み込むように食べる。
      その次に相変わらずの倦怠感を取り除くのに薬を使う。すると一瞬で倦怠感を感じなくなる。それと同時に意識がはっきり醒める。乱用を越えた脅迫的使用だ。薬を仕入れに行ったついでに、2ショットダイヤルに電話をして難波の歌舞伎座のまえで女の子と待ち合わせをしてみたりもした。たまに薬が手に入らない時は行きつけのラウンジに行って大好きなブランデーのヘネシー(赤ヘネ)をロックでガブ飲みした。デレデレにアルコールで酔っ払っていても覚せい剤を使うと、一瞬で酔いが醒める。覚せい剤を使いながらアルコールを飲むと、ほとんど酔わない。いくらでも飲める。こんな事を何度繰り返しただろうか、わからない。このような強迫的薬物使用は身体は勿論の事、特に脳にとっては、内部的にものすごい衝撃を与えている。心臓への負担も多大だ。今そんな影響を考えると実に恐ろしいのだが、当時の僕は生きづらさの行き詰まりを迎えていて、薬物使用によって少しずつ自殺する事を選んでいた。

      ひどくなった精神症状

      そして、とうとう自分を見失った。自分が自分でなくなる。意識の中に自分がいない。究極の精神の混乱がやってきた。ほんの少し現れた正気な僕が感じたのは、これまでにない限界だった。「ほんまに、もうアカン」そう感じた。そしてNAに駆け込んだ。何度か顔を合わせただけの仲間がやけに懐かしく思えて。嬉しかった。続けてミーティングに参加するうちに追跡妄想に支配され、僻地にある田舎の僕の家まで仲間がついてくる。家までは入ってこないが当時の僕は「付いてくるなよ・・・」と思うものの誰にも言えなかった。
      そのままマイカーで普通に往復すれば2時間もかからないのにミーティングの帰りは「付いてくる仲間を、マイテやる」と路地をクネクネ走ったり、わざと山間部の中を走ったりして3時間近く走りまわって自宅に帰った。それでも仲間は全員ついてきて自宅の裏山から「おーい!」「おーい!」と叫びだした。終いには戦国時代の合戦のように「わー!」「わーー!!」とうるさい。妄想と幻聴だった。それでも、ミーティングには参加した。そして次第に幻聴はなくなった。その頃の僕はミーティングに行くのは必ずスーツを着て行った。紫色や縦じまの上着のジャケットは袖を通さず、はおるだけでサングラスを掛けて髪の毛はムースで「ピチット」オールバックにして・・・「どチンピラ」ファッションと言おうか・・・、それとマイカーの音楽は目いっぱいボリュームを上げて鳥羽一郎の曲や「ど演歌」をかけていた。と当時の僕を知る仲間といまだに笑い話をする事がある。

      大阪ダルク

      ある仲間に僕のこれまでの経緯を話していた。「大阪ダルクは電話がつながらなかった。本当にあるのか?」と言ったら「あるよ、もしよかったら明日案内しようか?」と快く言ってくれた。次の日初めて大阪ダルクを訪ねた。大阪府高槻市寿町の富田駅から徒歩では30分ぐらいの所にある二階建ての長屋だった。リサイクルショップとクリーニング店の間にあった。中に入ると家庭用の食卓テーブルを囲んで椅子が置いてあった。第一印象は「狭い、なんやここ・・・」だった。薄暗い階段を登って二階に上がると、びっくりした、真黒の顔中ピアスで髪の毛が七色の変な人がロッキングチェアーに座ってテレビを見ていたのだ。鋭い目でギロっと睨まれた。「こんにちは」と挨拶をしたら、また睨まれた。「なんやねん、こいつ・・・何者や?怖いやんけ・・・挨拶ぐらいせえよ・・・」と思った。二間しかない別の部屋の押入れは襖を外してあり、その押入れは書類が散乱していて事務机の代わりになっていた。事務所スペースは狭っ苦しい四畳半ぐらいしかなかった。そこで「めばさん」が雑談のような面談をしてくれた。「よかったら、またダルクに来ればいいじゃん・・・またおいで」そう言ってくれた。なんだかすごく嬉しかった。すると「ドン、ドン、ドン」と地響きがして「ドどドどド・・・」と重たく壁が鳴りだした。「なんじゃ!ここは・・・?」その地響きは隣のクリーニング店からで機械の振動だった。それからは昼二時から始まるダルクミーティングに参加するようになった。しばらく通所して、たまに起こる地響きにも慣れだした。
      三日ダルクに行って、三日休む。二日程行っては一週間休む。睡眠障害で朝起きられないからだ。僻地の田舎にある僕の自宅から当時の大阪ダルクへは山間部の山道を通って行く事が多かった。途中の道路で分岐点に差し掛かり、右に曲がれば「高槻」でダルクに向かう。左に曲がれば「亀岡」だった。ダルクに行く事が嫌な時は左に曲がって衝動的に福井県の若狭湾まで海を見に行ったりもしたが、何故か夜のNAにだけはちょくちょく行っていた。今思うと、当時の僕の体は薬物の強迫的使用で疲れきっていた。壊れた頭では昼二時からのミーティングにさえ満足に出れなかったのだった。精神病院へ入院をして処方薬の助けが必要な状態だった。

      リハビリ放棄

      ダルクに行ったり行かなかったり。そんな事が半年も続いただろうか、多額の借金が気になりだした。というのも自宅に消費者金融から郵便で督促状が山のように届き、返済の催促の電話が「ジャンジャン」鳴る。「何とかしたい!・・・が、何ともならん。・・・どないしょう・・・」電話の着信音でノイローゼ気味になっていた。その音やそんな状況から逃げるように大阪ダルクに行った。二階でめばさんと「借金の催促で気が狂いそうです」と話しをしていたらダルクの電話が鳴った。「うわぁ~」僕は耳を塞いでうずくまりそうになった。自宅の電話機とダルクの電話機が同機種だったのだ。「もう、ええ加減にしてくれ!」と叫びたい心境だった。そんな事もあり、継続してダルクに行けない自分が嫌になっていた。誰にも相談せず自分だけの考えで「借金返済」を優先したほうがいいと決めた。
      急遽知り合いの運送屋に頼み込みアルバイトを始めた。早朝七時に仕事が始まる。夕方五時ぐらいに仕事は終わる。そして、仕事が終わると「お疲れ様」と事務所に{よ~く冷えた缶ビール}が出てきた。「アルコールも止めたほうがいい」そう思い「帰ります」と数日はすぐ自宅に帰った。何日かして社長が知り合いというのもあり「なんや、あれだけ好きやのに・・・ほい」と缶ビールを手渡された。気が付いたら五本は飲んでいた。「まあ、ええか。ちょっとぐらい」「覚せい剤は使っていないから良い」それも自分の勝手な理由づけだった。「アルコールを飲んだら覚せい剤を使いたくなる」それも全然なかった。それからは「アルコールは大丈夫」そう思って仕事が終わると毎日飲んだ。時には得意先で昼食をごちそうになってアルコールまでおよばれした。そしてトラックを運転して荷物を運んだ。そんな状態でも時々はNAに参加する日もあったが、アルコール臭の吐息を吐きながら「素面はいいですね」という始末だった。そんな事だから次第に関西圏のNAには罪悪感で顔を出せなくなった。たまたまアルバイトの運送屋で名古屋まで荷物を運ぶ事が多く、「二時間程の個人的な用事」と言う事で社長に許可を得て毎週土曜日は名古屋のNAに顔を出していた。
      そんな状態が約二年続いた頃の給料日に、何の迷いもなく覚せい剤を買いにいった。

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