薬物依存症回復支援 — 薬物依存症は回復できる病です

最近気づいたこと


倉田ちえです。まず,最近気づいたことからお話しします。

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私は今まで薬物の問題を抱えたたくさんの女性とかかわってきました。私は自分に相談をしてきた人に怒りをぶつけることをずっとしてきました。相談された問題について私は怒り,相手の怒りを私が喋ることをしていました。私が相手にかわって怒ることで相手は居心地がよく,そうすることで相手が良くなるとずっと思ってきました。ところが,そうではないということに最近気づきました。
先日,テレビで特攻隊の番組をやっていました。そんな状態にある人たちはどんな怒りを持つだろうと思ってテレビを見ていました。その時,特攻隊の人たちは怒りじゃなくて悲しみを持っているんだと感じました。私も自分が怒っていると思っていましたが,本当は悲しんでいたのだと気づきました。怒りつづけていることへの悲しさです。そのことに気づいてから,いろいろなことに気づくようになりました。


私は今から15年前の9月1日に精神病院に入院しました。そのころの私はいつもイライラしていて,クスリのことを考えないようにしようとばかりしていて,クスリのことを考えずにすむように,他の入院患者をいじめたり,お医者さんと喧嘩をしたりしていました。3ヶ月入院して退院することになりましたが,お医者さんから自助グループをすすめられ,通わないと退院させないと言われて,NAに通うようになりました。NAのミーティングでは,最初は何も話せませんでした。そのうちに自分のことを話してもいいという気持ちになって,話せるようになりました。そうしてクスリをやめつづけることができるようになりました。
でも,そのうち,ミーティングで自分の話をしているつもりで,自分の言葉を使って人をおどすようになりました。私の話をきいている人が,私の話で不安になったり,おびえたりするのがわかりました。それが楽しくてしょうがありませんでした。それでNAに行くのが楽しくなりました。ミーティングで人を不安がらせるのをやめるきっかけは,私を不安がらせる新しい女性のメンバーが入ってきたことです。私はさらに言葉でおどして,不安がらせて,その人をNAに来させないようにしようとしたりしました。
そんな中で,今から8年くらい前のことです。ある女性のメンバーに出会いました。私は女性を怖いと思っていましたが,その人のことは怖くありませんでした。ミーティング以外でも話をする関係になり,親しいつきあいをするようになりました。けれどもつきあいが続くうちに,その人にも言えないことが出てきました。それで「もうつきあえない」と言いました。その人は私をずいぶん非難して,去っていきました。それから数ヶ月して,その人が亡くなったことを知りました。その知らせをきいても,私は平然としていました。

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    • それから8年経った今,私はその人に申し訳ないという思いでいっぱいです。その人の死後にかかわってきた,たくさんの人たちにも申し訳ないと思います。私は自分に相談に来た人に対して,その人の問題に対して,怒っていました。それは私が母親からされてきたことと同じことでした。相談に来た人はおびえている私,私は私の母親でした。相談に来た人がおびえるほどの怒りをぶつけていました。本当は相談に来た彼女たちが自分で怒り,やらなくてはならないことを,彼女たちの代わりに私がしていました。特攻隊のテレビを見ていて,そのことに気づきました。このことに気づかないまま,女性が入所できるホームを私が作っていったとしたら,今までと同じことを繰り返してしまっていたと思います。本当に危ないことをしようとしていたと気づきました。
      気づいてから,私は怒らなくなりました。そのかわり,ブラックホールにはまりこんだような,はかり知れない悲しみにおそわれました。今年の7月から大阪ダルクの非常勤スタッフをしていますが,スタッフとして話をきいていても,本当は悲しいのです。それを見せないようにしていました。そのうち,見せないようにすることもやめました。悲しんでいる姿を見てもらえばいいと思うようになりました。私に相談してくれる女性たちは,そんな私のことを心配してくれました。それが私はすごくうれしく思いました。
      8年前に彼女が亡くなったころ,私は先行く女性のメンバーと知り合っています。私の母親は厳しい,かたよりのある人で,それが女性だと思っていたのですが,すべての女性がそうではないのだと思える人でした。その人はそのころから今まで相談に乗ってもらっています。8年前に彼女が亡くなったときに私は平然としていましたが,本当はやはり辛かったんです。その思いを何とかできるなら,何でもするという気持ちにさえなりました。そんなときに先行く女性のメンバーに話をきいてもらって,すごいことになったけど,私は生きていていいんだと思うようになりました。
      特攻隊のテレビを見ていて,自分の中の悲しみに気づいたことは,8年前に彼女の死を知って,楽になりたいと思った気持ちと同じ,また,はじめて薬物に対して無力だと気づいたのと同じ気持ちです。どうにもならないものを感じて,当分は生きたらいいと思っています。

      クスリを使う前,クスリを使っていたころ

      私は内向的で,泣いたら泣き止まない強情な子でした。幼稚園のころ,「カミナリゴロゴロ」をするように先生に言われても,格好が悪いと思って,叩かれてもできませんでした。空想がすごく好きで,絵本の「ぐりとぐら」の世界に,いつか窓から人が入ってきて連れて行ってくれると思っていました。
      小5のころに,学校でいじめにあったのですが,いじめにあったということだけは覚えていますが,内容が思い出せません。小6で,引っ越して,学校も変わりました。
      中1から,自転車のパンク修理に使うゴムノリを吸うようになりました。それが学校に知れて問題になり,母親が先生におどされるような形で,私立中学に転校しました。そこは女学校で,電車で通学しました。なかなか友達ができませんでした。そのとき,声をかけてくれた子がいて,その子についていけば仲間はずれにされずにすむと思って,べったりとつきあっていました。高校まであがれる学校だったのですが,その子は高1でやめてしまいました。その後もなんとか友達はできました。女の子の学校なので,どこかのグループに入っていなければいけない状態でした。それでも何とかやりすごせました。高1ころからディスコで夜更かしするようになり,それを1年くらい続けました。ディスコ遊びをすることで,咳止めシロップの一気飲みの遊びを覚えました。そのころはまだ遊びでした。高校のときも内向的なままで,「空気のような子」と言われていましたが,クスリを飲むと変わったような気がしました。クスリを飲むと自分でない自分になれました。そうやってクスリにはまっていきました。
      高校卒業後は看護学校にすすみました。親から高校を出るときに,「もう一人前なので,自分のことは自分で決めてやっていけ」と言われ,親が私から離れて行く不安でいっぱいになって,クスリの量が増えていきました。飲みながら看護婦の勉強,病院の実習をしていました。看護学校に通っていたころもディスコに通っていて,知り合った男性とホテルに行き,お金を抜き取ることを何度もしました。そうしないとお金が続きませんでした。一回に飲む量が8~9本で,一日に飲む量はどれくらいかわからないくらいでした。きれてきたと思うとまた飲んでいました。実習中の病院でカタクリ粉とよく似たクスリをカタクリ粉とすりかえて使ったりしました。そのクスリは数がないので,また咳止めシロップを飲むようになりました。実習のころはおかしくなっていたのか,更衣室があるのに,いつも外で着替えをして,実習の間中,更衣室は一回も使いませんでした。婦長に呼ばれて,「あなたが医者に見てもらいなさい」と言われ,何度も問い詰められましたが,卒業はできました。看護婦の資格試験もみんなからは一年遅れましたが,取りました。看護婦の免許をとったときも咳止めシロップを飲んでいました。
      看護婦免許をとったと同時に自分の部屋にこもるようになりました。夜中じゅう,ずっとミシンでものをつくり,明け方に過食して,吐いて寝るという生活でした。ミシンをふむようになってから,シンナー遊びをしている人たちが幻覚で見えるようになりました。通報しなくてはいけないと思うのですが,見えたり見えなかったりしました。クスリがきれてくるとそういうのが見えるようになりました。親はいのちの電話や警察に相談をしていました。警察から病院を教えてもらって,入院しました。それが15年前の9月1日です。3ヶ月入院して,それからNAに通うようになりました。

      ダルク女性ホームについて

      私の父親が経営していた会社を、父親が亡くなってから兄がついでおり、私もそこで働いていたのですが、3年ほど前に倒産しました。仕事がなくなり、家も失うことになりました。住む場所は父方のおじが手配してくれましたが、仕事は何も決まっていない状態でした。そのとき、先行く女性メンバーに相談したところ、大阪に女性ホームを作ってみないかと声をかけられました。女性の薬物依存症者が安心して回復できる場所をつくるのにいい機会だと思いましたが、そのときの私はいき急いでいたのだと思います。仕事をやめて立ち止まることをおそれていて、とまりたくないと思っていました。それで次の仕事を決めてしまいました。父方のおじのところで働くことになりました。
      それでも先行く女性メンバーの言葉がずっと耳に残っていて、いつ女性ホームをやろうかと思っていました。今年の6月、おじのところの仕事で工場から事務所にうつるように言われたときに、ホームをやる決心をつけました。一人で決心をして、会社をやめました。今、仕事をやめないと、ずっと身内の中で働いていくような気がしました。それでもよかったのですが、今やろうと決心しました。
      仕事をやめるときに、先行く女性メンバーから教わった言葉が頭にありました。「ちゃんと話せばわかってもらえる」。たしかに、ちゃんと話せばわかってもらえました。私は母親に女性ホームをやると言いました。母親は何も言いませんでした。姉に言うと、「失うものはないから、やりたいようにやればいい」と言われました。兄に言うと、「がんばれ」と言ってくれました。
      今年の7月から大阪ダルクの非常勤となっていますが、今はたいへんです。まわりの人とのかかわりを保っていく難しさがあります。
      最初に最近気づいたことについてお話ししましたが、私にとってはクスリがとまってからの生活について最近気づいたことがとても重要なのです。私は男っぽい人間だと思っていました。男のように生きたいと思っていました。父親のような男になりたいと思って居いました。それで何をしたかったかというと、母親をコントロールしたかったのです。それに気がつきました。私は「らしさ」の話をすると、すこしおかしくなります。最近は、「私らしさ」でいいんだなと思うようになりました。
      これからダルク女性ホームをつくっていくと、クスリをやめていくいろんな人とかかわっていくと思います。最近きづいたことの中で、私が今までかかわったきた人たちに申し訳ないと思うと言いましたが、同時に、私につきあってくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。私が教えるのではなくて、学ばせてもらってきたのです。彼女たちに私という人間につきあってもらってきたのです。これからも、どうか私という人間とつきあってくださいという気持ちです。

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