「薬物依存」、アメリカの今

サンフランシスコやバークレーにはアジアの文化がたくさん入ってきており、私の住んでいる通りも、隣は禅センター、その三軒先はタイ仏教のお寺で、毎週末非常なにぎわいをみせています。

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ベイエリア中あちらこちらにメディテーション(瞑想)センターがあり、多くの人によってスピリチュアリティーが追求されています。 私もしばしば、そういう場に顔を出すのですが、ある時、熱心な「シニア・スチューデント」と庭でお茶を飲みながら話したおり、彼が言いました。 「スピリチュアリティーは僕にとっては、人生で一番大切なものだよ。どうしてそう思うようになったかって?君はグランドキャ二オンに行ったことある?十年くらいまえ、初めてあそこに行ったとき、すごい体験をしたんだ。ハイキングしていたらね、あっちから歩いてきた人とすれ違いざまに、『買わないか?』って言われたんだ、LSDだよ。値段を聞いたら手ごろだったから買った。僕ひとりだったからそのまま適当なところまで行って、岩の間にねっころがって、そのLSDをやった。その体験がすごかったんだ。忘れられないよ。あの体験が、僕の人生を変えたんだ。」

60年代を代表するかのような薬物LSDの主な機能は、快感物質を刺激するのではなく、人の認識力に変化をもたらすことです。視覚刺激を聴覚刺激として伝達したり、味覚を視覚として伝達したりと、脳の中の情報の流れを混乱させるのです。だから、色が聞えてきたり、音が見えたりします。LSDは快感物質をそれほど刺激しないので依存性は比較的低いうえ、脳を混乱させるため、そのあとの疲労が激しいと言われています。そのためか、薬物依存の現場でLSDそのものが主な問題になるということはそれほどないようです。
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    • 「今でもLSDをときどきやるの?」と聞いた私に坊主頭の彼はまじめな顔で、「いや、もうやらない。薬の力でそういう体験をするっていうのも、つまるところなんだか、すっきりしないからね。自分の力で、ああいう境地を体験したいんだ。だから座禅を続けているんだよ」と言い、にっこりわらって、「でもときどきポット(マリワナ)は吸うよ。僕の今の唯一の娯楽かな。」 日本だったら、熱心に毎日座禅を組み続ける禅宗の宗徒が、マリワナを毎週吸っているなんていったら大騒ぎかもしれません。でもアメリカ、特にベイエリアでは、マリワナは、たばこよりも害がないと思っている人がかなりいるくらいに、よく使われています。吸ったことがないという人のほうが、吸ったことがある人よりもずっと多いのではないでしょうか。マリワナを吸ったことがあると答えた十代の青少年の数が半数以上だったという統計もあるくらいです。マリワナは依存性が低いといわれており、食欲を刺激する作用があるので、AIDSなど食欲減退が問題になる病気の治療として、医療の現場で使おうという動きも高まっているようです。 マリワナは、それくらい普通に、日常生活で語られ、用いられています。違法であるにもかかわらずタバコより市民権を得ている印象があるくらいです。 これら比較的安全と言われるドラッグのほかに、危険なドラッグであるコカインやヘロインも、巷にあふれています。知り合いの家に預かりものを届けにいったら2,3人で注射器を回しているのを見てしまった、と驚いて相談をうけたこともありますし、路上に注射器が落ちていたとか、通りを歩いていたら「買わないか」と声をかけられた、という話も頻繁に耳にします。「薬物依存」と闘おうという現場で最も多く問題になるドラッグです。 さらに、この5,6年、ヨーロッパから入って来てはやり始めた「エクスタシー」や、GHBなど、危険なドラッグの数はふえているようです。 また、子供や青少年への薬物の広がりもアメリカの特徴かもしれません。十代の思春期はドラッグを実験的に使う時期でもあり、いろいろなドラッグをとりあえずは試してみるという青少年の割合は非常に高いといわれています。タバコは大人になったらやめるもの、と半ば本気で言われていたりしますし、マリワナも多くの中高生が仲間から誘われたりして試しているようです。また、最近問題視されるようになってきたのが、ADHD(多動性障害)と診断された子供に処方される薬です。ADHDと診断される子供の数は年々急速に増えていて、それは現実にADHDの問題を持つ子供が増えたからではなく、落ち着きのない子供をADHDと診断してしまう傾向が強まったからであり、大人の側の問題だと指摘する声もあがっています。ここで問題なのは、ADHDに処方される薬が、非常に依存性の高い「刺激性」の薬物であることです。依存性の薬物として問題視されているメタアンフェタミンと構造が非常に良く似ている薬なのです。そんな薬を、落ち着きがないからといってまだ5,6歳の子供に無理やり飲ませることは、深刻な薬物依存を子供の体の隅々にまで植え付けているようなものなのですが、この「治療法」は今も普通に精神科などで行われています。 アメリカ社会で人々が「薬」に頼りがちなのは、ADHDに限らずすべての「問題」に共通しているようです。鬱だといえばプロザックを勧められ、生理痛にアスピリンを処方され、出産の時に麻酔を使うのも当たり前。落ち着かない子供をコントロールするため、痛みや心の悩みをコントロールするために、薬がこうまでいとも当たり前に使われるのは、「自然」を科学で支配しようとしてきた西洋の文化の価値観を象徴しているのかもしれません。 そのようにアメリカは「薬物大国」という印象さえありますが、「依存」ということに関してはまたもうひとつの顔を持っています。アメリカでは、さまざまな「依存物質」、「依存対象」が、克服すべきターゲットになりつつあるのです。 アメリカの中でも特にカリフォルニアは、そういう動きが盛んなようです。タバコは公共の場で吸うことが法律で禁止されていますし、家の中でさえ家主が「禁煙」としている場所がほとんどなので、いまやタバコが吸える場所は本当に限られています。お酒もしかりで、ビールさえ外で飲んではいけないことになっているため、屋外で飲むときはみな紙袋に包んで隠して飲んだりしています。 「依存」への問題意識は、そのターゲットを広げ続け、酒、タバコの次は、カフェイン、最近では砂糖やスナックなど食べる必要のない食物まで、その対象となっています。また、依存物質を摂取する行為だけでなく、インターネットや電子メール、買い物、性的行為、働くこと、はてはジムで汗を流すことまで、アディクションの対象として注意をうけつつあります。こうなってくると、何が健康で何が不健康か、どこまでが自分の意志でする行為でどこから先が依存の結果なのか、何をするときもつねに考えながら行動しなければならないようで、非常に窮屈な感じさえします。 こう考えてみると、アメリカ社会の中に見られる「薬」の多用も「依存」への強い問題意識も、「コントロール」への強い意志の表れなのかもしれません。どちらにしても、いきすぎればそれ自体が「依存」の対象となったり、人を苦しめる原因となることを、自覚していなれけばならないということでしょう。自然を科学の力でコントロールすることの限界が、人のこころにもあらわれてきているということなのでしょうか。 無力で小さな自分を自覚するというテーマは、多くの宗教やスピリチュアリティーに共通するものであり、AAなどの12のステップの基本でもあります。今アメリカで、東洋のスピリチュアリティーが注目されているのは、そういう背景もあるのかもしれません。LSDを使うかわりに、瞑想によって己を超えようとする人が増えているのも、そのひとつのあらわれでしょうか。 「私」という存在も自然の一部であるような日本の古来の価値観が、人の心のありかたに対して貢献できることは、これからの時代、アメリカでも、アメリカ的な文化を育ててきている日本でも、たくさんありそうです。

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