仕事・アルコール・タバコ依存(???)の元少年裁判官からのメッセージ

今年2005年の1月に65歳になり、裁判官を定年退官した。裁判官生活約38年間の内訳は、刑事10年、民事10年、家事10年、少年8年である。
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裁判官というものは、(日本では)相当の仕事依存症者の集団である。第1、転勤だけでも凄い。私の場合で、大阪地裁、延岡支部、前橋地裁、大阪地裁、大洲支部、津山支部、福岡家裁、岸和田支部、神戸家裁と9箇所である。3~5年毎に引っ越した訳だが、我が妻子(子は3人)はたまったものでなかっただろう。

それに、裁判官は仕事を家庭に持ち帰る。最寄り駅か官舎まで送ってくれる運転手の勤務時間(一応午後5時)の都合で夕方4時半には裁判所を追い出される。その際大量の事件記録を持ち帰る。家庭内で長い時間を費やしてそれらの記録を読みふける。 人によっては、帰宅するやいなや、夕食とともにアルコールを飲み、早々と一寝入りして、夜中の1時ころに起き出し、それから朝8時まで仕事をする。能率抜群で、私も1時期そのパターンにはまっていた。家族との関係をどう考えていたのか、我ながらあきれる。 また、人によっては、夕食をそそくさと済ませ、夜中まで(居間から離れた)書斎にこもる。家族とは接しない。夜中になり記録を横に置いても、直ぐに眠れる訳がない。寝酒を飲むことになる。段々量が増え、翌朝から昼過ぎまで頭の芯がフラフラする。ほとんどアルコール依存症である。私も1時期そのパターンの毎日だった。
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    • それでも現職の裁判官がアルコール依存症でなかなか脱落しないのは、仕事依存の方が優越するからである。自分で判決か決定かをして処理しない限り、事件がどんどん溜まる。当事者が死んだり、事件を取り下げてくれたりすることは少ない。他の裁判官が事件を引き取ってくれることはない。だから毎日仕事に全エネルギーを投入し続けざるを得ない。毎日「卵」を産むことが慣わしとなっている「ニワトリ」である。卵を産み続けてさえいれば裁判官として生き残れるのである。 それで、私もある時期にやむなく断酒した。仕事を優先せざるを得なかったからである。 弁護士となった今も基本的に断酒が続いている。まだお客さんはわずかで、その点では暇はたっぷりあるが、少年問題ネットワーク・少年問題を考える会・VOMの運営や読書・執筆などで、結構多忙であり、酒を飲んでいる暇がないからである。しかし、何年か先、全ての「仕事」を手放した後、日本海の沿岸に移り住み、小船を漕いで小魚を釣る日常を夢想している。小船に酒を積み込み、泥酔して海に落ち、肉は生き物に食べられ、骨は最終的に海水に溶けて消滅することを、怖がるどころか、ひそかに期待している。これって、潜在的なアルコール依存症者なのでしょうネ。 タバコの方は、今も依存心が強固である。京都大学法学部の2年生であった19歳の時から吸い始めた。当時は80%の男性がタバコを吸っていた。法学部の学生は全部で1000人だったから、800人は吸っていた勘定になる。それから45年間吸い続けて、私は癌になった。2004年の秋、喉頭がんで声帯もろとも喉頭を除去し、食道がんで食道の3分の2を切り捨てた。タバコが原因である。それでも、信じられないことに、タバコを吸いたいという欲求はなくならなかった。入院中2か月ほどニコチンパッチを貼ってまぎらし、何とか断煙に成功した。1年経って、まだタバコが吸いたくてたまらない。もう一度ニコチンパッチからやり直しを図る破目になりそうな感じである。 酒もタバコも合法的な「薬物」である。私はさすがに違法な薬物使用の経験はない。しかし、依存心の強固さは理解出来るつもりでいる。そのことの説明として、個人的なことを書いた。 裁判官の立場で、薬物(使用)依存の事件とは、刑事では「刑の量定の問題」として、民事・家事では「離婚原因となるか、その場合慰謝料の額はいくらかの問題」として、少年では、「更生させるための指導・処遇の問題」として取り組んだ。 刑事裁判の経験は30年前後昔のことである。例えば前橋勤務のころは、刑事裁判担当だった。覚せい剤使用の事件が結構あった。そのころは、まだ量刑も今よりは大分軽くて、初犯は大体懲役6月・執行猶予2年が相場だった。執行猶予中の再犯(再使用)の場合も、懲役8月・執行猶予3年・付保護観察程度がむしろ普通であった。但し、事案によっては実刑ということもあり、その選別が悩ましかった。月曜日に判決予定の事件(覚せい剤の執行猶予中の再使用)で、前日の日曜日に実刑判決と再度の執行猶予(付保護観察)の判決と両方起案して、さてどちらにすべきか煩悶していたことがある。悩みながら散歩に出かけたら、何と当該被告人が経営する店舗(小売店・お肉屋さん)の前を通り掛かった。保釈中であったが、私は、被告人(30歳くらいの男性)は実刑・収監を予測して店舗を閉めて潜んでいるものと思い込んでいた。しかし、目にした光景は、被告人とその妻(情状証人として出廷し、今後の監視と支援を確約していた)が、店頭に寄り添って並んで、笑みをたたえながらお客に心底愛想良く対応している姿であった。「明日から当分閉店するならば、今日のお客さんを大事にしよう!」という気持ちが伝わって来た。またご夫婦の人間関係も和やかで暖かいと思った(法廷では夫婦の気持ちの交流具合などさっぱりわからない)。 私は、この店を閉鎖させ、夫婦を1年も切り離すのは惨すぎると直感し、帰宅すると実刑判決の起案を廃棄した。そして再度の執行猶予の判決の理由の中に、妻の今後のサポートが十二分に期待できるという一文を書き加えた。翌日の判決宣告後、被告人とその妻が抱き合って嬉し泣きしていたシーンを今も思い出す。 その後、覚せい剤自己使用の量刑相場は重くなる一方のようだ。刑事裁判官の仕事は、そもそも面白くも可笑しくも無い。自分達が作っている相場に当てはめて具体的な被告人に対する量刑を判定する訳だが、これは、感激や感銘を覚えることが(ほとんど)ない作業である。中でも、薬物自己使用の事件はその典型だ。手っ取り早く済むだけが取り得の事件類型だ。 「ドラッグコート」が出来れば、刑事裁判官たちのプライドは回復する。反対する裁判官はいない筈である。制度を構築するまでのプロセスは大変だが、私も、刑事事件の弁護人を担当する弁護士の1人として応分の寄与をしたい。 家事事件の経験も10年前後昔のことである。福岡家裁では、「アル中」の夫に対する妻からの離婚調停の割合がそこそこ多かった。でも、「酒を呑むのは男の甲斐性」と思っている調停委員が男女を問わず結構居て、大体妻をたしなめていた。その結果、事件の多くは取下げや調停不成立になっていた。 果たしてそれで良いのかと訝しく思い、アル中医療専門の精神科医を1月に1回講師に招いて、調査官と一緒に1年間勉強した。「むしろ離婚させた方が良さそうだ」との感触を皆が抱いた。AAのことは、ちょっと説明を聞いた程度で、参観に行くとかのレベルには達しなかった。 今後、アルコール依存の当事者の離婚紛争に、どちらかの弁護士として関わる機会があるだろう。AAの活用を視野に入れ、調査官や調停委員の参観も勧めて行きたい。 裁判官生活の最後の約8年、神戸家裁で少年事件を担当した。それで思ったことは、成人させた子が3人もありながら、「子育て経験が皆無だった」という情けない後悔である。毎年スキー旅行に連れて行ったり、海水浴に連れて行ったり、家庭内マージャンをしたり、草野球をしたり、結構我が子と遊んだ記憶はあるが、「育てる」ことは100%妻に押し付けていた。少年事件担当裁判官には、本当は子育て経験が不可欠であるのに、惜しいことをしたものだ。 私は、普通の男性裁判官だから、多くの男性裁判官の家庭で、私同様、父親による子育て放棄がありそうだ。これって、非行や薬物依存を生み易い典型的な環境の1つである。その割には、裁判官の子弟の非行などを余り聞かないが、子どもたちが、過剰に頑張っているのかも知れない。しかし危険な状況に変わりはない。 最近に至り、全国転勤の男性裁判官と結婚しても良いという女性が少なくなって来ているそうで、裁判官制度(を含む司法制度全般)の見直しがされようとしている。必要なことだと思う。 さて、私が神戸家裁で審判を開いた少年の数は年間700人くらいだから、5000人を超える。薬物使用の少年の比率は余り多くはない。調べずに感覚だけで物を言って恐縮だが、1割以下のような気がする。 神戸家裁では、シンナーを吸っていた子どもたちのうち、始めて家裁に送られてきたケースについて、医務室勤務の看護婦が、90分ほどの講習(数人の子どもたちにその親たちも加えた集団に対するもの)を行い、受講した感想文を親子に提出させている。 そのような講習の結果と、(検察庁を経て送られて来た)警察の記録、家裁調査官による親子面接の結果報告、(極まれに少年鑑別所に入れたときは)鑑別所の意見などを全部合わせて検討し、裁判官が「もう再使用の心配はあるまい」と判断したケースについては、審判不開始(審判を開かないので、裁判官は子どもやその親に会わずに、書面だけでその判定をする)または不処分(審判を開きその席で裁判官自ら親子に説諭する)で終了させる。予測は8割は当たっている(20歳までのことではあるが、2度と事件が来ないケースがそれくらいはあるから、そう判定している)。覚せい剤使用のケースは、看護婦さんによる集団講習はないが、調査官による個別の薬害教育は行われるので、取り扱いは似たようなものである。 2回目以降の薬物使用のケース、再使用の心配が強いケースなどは、保護処分に付す。保護処分の種類は、児童相談所長送致、児童自立支援施設送致、保護観察、少年院送致などといろいろである。もちろん少年院送致が一番重い保護処分であるが、にっちもさっちも行かないケースは、特に迷わず悩まず少年院へ送っていた(合計すると何十人かになるだろうか)。少年院が何とか教育してくれているものと思い込んでいて、裁判官として危機感は全然なかった。調査官もそうだったと思う。 しかし、何かの学会で日本ダルク代表の近藤恒夫さんと会い、お話に刺激を受け、ご著書「薬物依存を越えて 回復と再生へのプログラム」を読んで、更に刺激を受けた。例えば15歳で薬物にはまり、病院・警察・鑑別所・家裁の審判・保護観察・少年院・地裁の判決・刑務所などを経て、25歳で「ダルク」にたどり着く。その後結構長い月日を経て、3割は回復する(残りは、死・放浪・病院・刑身所?)との印象を受けた。 これは大変だ。未成年の間に、ダルク(NAとナラノンを含めて言っている)と繋げて置くべき子ども達が神戸家裁規模で年間何十人かいるのではないかと思わざるを得なかった。 それで、書記官と一緒に自助グループのミーティングを見せてもらいに行った(調査官を1人誘ったが、なぜか来なかった)。薬物依存の本人のミーティングが1回(大阪十三の教会のもの・参加者30人くらい)、親のミーティングが2回(大阪高槻と桜ノ宮の教会のもの・参加者5~6人くらい)である。 参観の印象は強烈だった。お役所の会議とは異質と言うか180度違った。お役所の会議では発言者の地位が物を言う。従って真面目に物を言わない人(本音を言わない人)がいる。そのため端から人の意見を聞くつもりがない人も居る。時間の制約もあって、意見表明は絶えず「手短に」とせかされる。しかも話し会いは多くの場合肝心のところで途切れる。気持ちや感情と言った心の内面が語られることはない。 ミーティングを参観した感想の一部を書く。 * 裁判官と書記官が行ったのだが、そもそも身分を尋ねられなかったのに驚いた(後の懇親会で始めて自己紹介した)。しかも、テーブルから離れたソファーに座っていたら、どうぞこちらへと手招きされて、テーブルのど真ん中へ座ることを許された。名前も身分も分らない参観者を何ら区別しない扱いには本当に驚いた。しかも、会場費の寄付を募る箱は、参観者である我々の前だけ素通りした。「いただきません」と言う。その潔癖さにも感心した。 * 普通は「恥ずかしい」こと「人には言いたくないこと」を淡々と、あるいは「涙ながらに」、あるいは「にこやかに」、ゆったりと静かに自然体で語るのに驚いた。 * 3日前からクリーンな人と、10年間クリーンな人とでは、期間で言うと1200倍の差があるのに、長い人が威張っておらず、短い人も卑屈でない。参加者全員がマラソンのスタートラインに横並びしているイメージが漂っていた(今日1日頑張ろうという点で全く平等だとのイメージ・・・お役所ではありえないイメージ)。 * 第三者的には詰まらなさそうな話もあったが、そんな場合でも、全員が全身を耳にして身じろぎもせず熱心に聞き入っている姿には驚きを超えて感動した。 * 90分ほどの大枠があるようで、1人だけ長々としゃべる人は居なかったが、急かす空気は皆無だった。 * 宗教的なイメージはしなかったが、地位や立場が物を言う日常社会とは全く別の次元の世界であるとは思った。その意味で、何か「神々しい電磁波」がその場の人々を固く結び付けているような良い印象を受けた。 * 薬物依存の本人のミーティングの方に、中学生か高校生らしい女の子が保護者(参観)と参加していた。恥ずかしそうにではあったが、パスせず、何か発言していた。保護者同伴なら、未成年者の参加も可能と見て取れた。しかし、始めての子どもも受け入れてもらうためには、せめて「電車」に乗れる程度の身だしなみを考えてほしい男性も3人ほどいた。 * 親の会では、父親は1人だけで残念だった。父親参加の重要性は、口を酸っぱくして強調しなければなるまい。他方で、子どもを参観に連れて来るのも案外有意義かなっと思った。参加者が自分の子どもを連れて来ることの他、子どもが全然他人の親たちの会を覗くのも有益だろうと思った。 参観の結果、薬物依存からの回復にとって、本人や家族がそれぞれの自助グループのミーティングに参加することは極めて有効な方法の1つだなと思った。 以来、裁判官当時の私の「夢」は、家庭裁判所が扱う「薬物使用」の少年・少女たち(通常14歳から19歳が対象、まれに10歳くらいから13歳の子を扱う)のうち、予後が心配な子どもたちとその親たちを全て自助グループに繋げたいというものになった。 しかし、定年退官までに実際にやれたことは少ない。 ある裕福な家庭の女子(16歳)が薬物に嵌って家庭を滅茶苦茶にした。病院が役に立たなかったので、親は今度は警察に委ねるしかなかった。鑑別所と調査官の意見は(型どおり)少年院長期の処遇が相当と言うものであった。 親の希望は、「少年院では世間体が悪すぎる。民間の施設は無いのか?娘の教育や嫁入り資金から流用するので、お金は厭わない。探してほしい」とのこと。 私は、ダルクに問い合わせをさせたが、「16歳の女子ではねー」ということで色よい返事が無かった。少年院に送って、今どうなっているか知らないが、落胆したケースである。 そこで、次に似たり寄ったりだがちょっと程度の軽いケースで、付添人弁護士を付けさせ、子どもはNAに、親はナラノンに通うことを条件に、第1回の審判期日で鑑別所から釈放し、以後月1回の審判で経過報告をさせるという扱いをしてみた。調査官に試験観察を命じたかったが、調査官がたじろいだので、単なる審判続行とした。裁判官直轄の試験観察である。そのケースは案外上手く転び始めたが、私が退官の数ヶ月前に突然癌手術のため入院してしまったため、どういう終局になったのかが不明である。多分保護観察に繋いで成功しているように思っている。 取り組んだ実例は2つだけだが、私の「夢」を全般的に言うと、中間処分として試験観察にして自助グループに繋げること、終局処分として不処分にするケースと保護処分に付すケースについて、自助グループに繋がることを条件とすること(不処分の場合は、その後例えば半年後に親から経過報告してもらうことも条件にすることがある。保護処分に付す場合は担当機関に対してその旨の処遇勧告を行う)、あるいは既に自助グループに繋がっていることを確認した上で当該決定を行うこと、保護処分に付した後、適当な時期に(例えば3月後、6月後)、当該保護機関に問い合わせたり、報告を求めたり、場合によっては動向視察の権限を行使して確認のために出向ことなどである。 これらの「夢」をろくに実践出来ないまま退官してしまったが、今後少年の付添人弁護士としての立場から、「夢」の実現に向け、出来る限りのエネルギーを注ぎたい。しかし、何分にも65歳という高齢で、去年喉頭がんで声帯もろとも除去し、食道がんで3分の2を切り捨てたという「病後の身」である。時間的にも体力的にも限界が明らかである。そういう私が担うべき役割はどういうものなのか、ご相談して見たいとの気持ちで今回の原稿を書いている。 先にチラッと触れたが、日本ダルク代表の近藤恒夫さんとは、何かの学会で近藤さんが講演されたとき、受講者として参加していて始めて出会った。お話に刺激を受け、ご著書「薬物依存を越えて 回復と再生へのプログラム」を読んで、大体納得した。その後私が主宰した「京都医療少年院丸一日参観プログラム」に近藤さんも参加していただき、2回目の出会いがあった。3回目は、最近の京都ダルク2周年記念フォーラムである。 そして、この原稿を書くために、「薬物依存を越えて」を再読した。名著であると思う。 前回以上にほとんど理解出来た。しかし、それでも、「得心しにくいな」と感じる部分、「???」の部分、「具体的なエピソード」が欲しいなと思う部分などが、合わせて10箇所くらいはある。私ですらそうだから、もし全国に2300人余りいる地裁・家裁・高裁・最高裁の裁判官たち全員に読ませて意見を求めることが出来たと仮定すると、疑問や注文の数はおそらく何十から百を超えるかも知れない。もちろん、全員に読ませることは出来ない。友人であった裁判官数名と「読書会」を2~3回持って、幾つかの「注文」を集めるくらいだ。皆さんも、周囲の方々の「注文」を集めていただきたい。そういうふうにして集まったものに、近藤さんが丹念に応答して手入れした「改訂版」が欲しい。近藤さん本人の「個人の経験を越えて」、ダルクのスタッフの方々の自筆の原稿も、「コラム」として、この本の中に是非多数収録して欲しい。 皆で手分けして、日本中の少年司法の関係者(学校の先生、警察官、検察官、家裁調査官、家地裁裁判官、家地裁書記官、鑑別所職員、少年院職員、保護観察官、保護司、児童相談所職員、児童自立支援施設職員、拘置所・刑務所の職員、弁護士、医者、看護師、心理士、学者、報道関係者などなど)に、とにかく「この1冊」をお読みくださいと皆で押しまくることの出来る本が欲しい。誰もが1度は手に取って見る「バイブル」が欲しい。 このようにして、とにかく「この1冊」を確保した上で、後は「依存者本人や家族のミーティングを参観に来てください」との宣伝を執拗に行って欲しい。 例えば、大阪家裁へは、「大阪家裁少年部裁判官・調査官・書記官ご一同様」との宛名で、毎月、その月の関西のミーティングの参観案内を発送して欲しい(沢山来られても困るなら、先着5名様に限りますとでも書き、ついでに、近藤恒夫著「薬物依存を越えて 回復と再生へのプログラム」の宣伝文も必ずくっつけて)。 薬物依存者本人やその家族は、「藁にもすがりたい心境」で自発的にミーティングに繋がる可能性がある。しかし、関係機関は、「今まで通りで別に飯を食うのに困っていない」ので、本を読んで理論的に触発され、偶然の機会にミーティングを覗いて見て感覚的にも得心が行き、両方合わさって始めて、自らが担当する子どものケースについて、一度ミーティングに繋げて見ようかなとの気持ちになる(私がそうだった)。何年間か根気良く取り組めば、関係者がボツボツ近藤さんの本を読んで、ミーティングを参観に行く。 そしてミーティングに参加する子どもの数が年々じょじょに増える。やがてスタッフにもなり、参加者の半数が子どもになるには、10年は掛かるだろう。ともに社会的弱者である大人と子どもが、手を携えて、回復への希望の道のりを歩んで行く姿は、社会に感動と衝撃を与え、人間の価値観をも変える。それにより我が社会は蘇る。

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