薬物依存症回復支援 — 薬物依存症は回復できる病です

マニアたるもの注射や


僕は薬物依存症のカズといいます。

fp24

現在三十三歳で、妻と二人の子供がいます。僕が初めて薬物と出会ったのは大方の人達と同じ、中学時代です。薬は、シンナー、タバコ、酒。酒とタバコはやったがシンナーはやらなかった。よだれを垂らしながらシンナーを吸っている友人を横目に、「ああはなりとうないなぁ」 、と思いました。高校生になるころには酒呑みになっていました。家と学校が近かったので、夏の暑い日なんかは昼休みによくビールを飲みに帰ったりもしていました。卒業するとすぐ、仕事についた。そして親に買ってもらった車で毎晩友人と走り回ってはナンパに励んでいました。いつもシンナーを持って・・。周りはみんな吸っていたし、当時シンナーがあれば女の子はすぐにひっかかったのです。それでも僕はシンナーを吸わなかった。「あほになる」「体に悪い」「くさい」。一丁前のジャンキーになった今思えば、十分笑える話ですね。


でもいまでも「ヘロインとシンナーは絶対やらない」と決めています。シンナーは吸わないが大麻を吸い出しました。それからはずっと酒と大麻しかやりませんでした。何の問題もなかったようにおもいます。酒は合法ですし、大麻は非合法なものの、体に深刻なダメージを与えないのは知っていましたので何の罪悪感もなかったのです。他の薬に興味を持ち始めたのは二十台も半ばに差しかかったころです。そのころ僕は大麻の事をもっと勉強しようとその手の本を読み漁っていました。当然そこには他のドラッグの事も書いてあり、そちらの勉強も進んでいきました。つまりドラッグマニアになったのです。

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    • コカイン、エクスタシー、LSD、サボテン、きのこ、ガマの油、効くと思われる物はおおよそやってきました。LSDやきのこは体に合わないのであまりやらなかったが、大麻とコカインは大好きで、よく使いました。それなりにコントロールできていた様に思います。でも覚醒剤だけは、そうはいきませんでした。まったくコントロールがきかないのです。覚醒剤をやる時、「あぶりなんかはあかん、マニアたるもの注射や」、と初めてのときから静脈注射。いったん覚醒剤を覚えてしまうと、他の事はまったく目に入りませんでした。結婚してからずっと両親と同居していたのですが、とにかく家族のことが邪魔でしかたがなかったのです。親とは顔を合わせると口論になるし、妻や子供にいたっては顔さえ見ようともしませんでした。奈良に住んでいた僕は、毎晩、大阪まで覚醒剤を買いに行っていました。毎晩です。借金が三百万くらいになったころ、家族にばれました。ここからが本当の泥沼でした。サラ金の借金は親に尻拭いをしてもらい、自身は断薬を誓ったのですが、それでも覚醒剤は止まりませんでした。「周りの環境がわるい」と、親の知り合いに預けられたりもしました。場所は三重県の南の海辺で、毎日、のんびりと暮らしていたのですが、一ヶ月ほどたったころ大阪に行き、スリップしてまたまた親にばれました。三重ではだめだと今度は沖縄から迎えがきました。沖縄での生活はとても楽しく、肌に合いました。しかし心のかたすみにはいつもシャブの欲求がありました。毎晩のように夢に出てくるのです。二ヶ月たってかえってきましたが、そのあしでスリップ。三ヵ月後に逮捕されました。拘留がとけて社会に帰ってくると、僕が兄の様に慕っている人が、ダルク創始者、近藤さんの『薬物依存』という本をくれました。僕が逮捕されたときから僕の病気について勉強してくれていたようです。本を読み終えると、保健所にいってある人に会って来いと言われました。保健所に行って紹介された人と会いました。そこにNAのメッセージが届いていたのです。保健所の方は、話の最後に「行ってみてはどうですか?」とすすめてくれました。ばかばかしいと思いました。しかし親の手前、妻の手前、必死になってくれている兄貴分の手前、「行くだけは行ってみよう」と思い、行きました。実際に行ってみると、そこではミーティングが行われていました。最初は、「こんなことをしていて何になるんかなぁ」というのが本当のところでした。でもミーティングの帰りに仲間が「だまされたと思ってこい」と言ってくれました。僕は「はい」と返事をしてしまい、しかたなく次の週もミーティングに行くことに。僕からみて他のメンバーは「赤の他人」でしたが、彼らは僕の事を「仲間」と呼んでくれました。そのころの僕の人生はどんどん苦しくなっていく一方で、娑婆に出てから覚醒剤こそ使っていないもののひどい鬱状態になり、何をどうしていいのか全くわかりませんでした。苦しくて死にそうになるとNAに行く。NAに行くと何とかなると思っていたのです。実際、仲間はやさしく受け入れてくれ、帰り道は肩を抱いてくれました。しかし毎日の気分はどんどん苦しくなり、とうとう仕事にいくことも出来なくなりました。それでも覚醒剤は使いませんでした。というよりは使えなかった。覚醒剤どころではなかったのです。毎日毎日、寝転んだままでした。NAのメンバーの内、何人かはダルクのメンバーでもありました。ある日のNAの帰り一人の仲間が「昼間家でごろごろしてるんやったらダルクに来たらどうや」、と声をかけくれました。

      ある日、一人の仲間とダルクで待ち合わせをしました。当時の大阪ダルクは高槻市というところにあり、駅からもかなり遠い場所にありました。やっとの思いでたどり着いたという感じです。中に入ると、2、3人知っている顔がありました。ちょうど昼時で、「いまから皆で昼飯を作る」といわれました。その日の昼食はオムライス。最初、足を踏み入れてから、なんともいえない雰囲気でした。「ここでいったい何をするんやろ」、「こんな倉庫みたいなとこで飯食うんかぁ」。最初の印象はそんなところでした。きょとんとしている僕。他のみんなは昼食を作り始めています。どうにか一日をすごしたものの、夕方になるまでの時間はひどく長いものでした。初めて行ったところに馴れるには、少し時間がかかることは当たり前ですが、どうにもバツが悪かった。いつもは、初めてあった人とでも話せるし、対人関係を苦に思ったこともありません。でも、このころ、鬱はまだ続いており、すぐに仲間に馴染めなかったのです。「二度と来ない」、そういうふうに思った記憶があります。しばらく家でごろごろしていました。そしてまた覚せい剤に手を出したのです。薬を使う日が続きました.しかし鬱状態からは一向に抜け出せず、時折、思い出したようにダルクにいったのです。そして奈良を離れ、大阪に引っ越すことにしました。生活保護を受け、NA、ダルクに通うために。大阪に出てきてからも薬は止まらず、ダルクやNAのミーティングにもたまにしか顔を出しませんでした。三年もたった今、当時のことはあまり覚えていませんが、覚せい剤を使い、酒を飲み続けたことは覚えています。今になって思えば、あのころ僕自身「ダルク」というものをどういうふうに捉えていたのか時々考えます。「ここにいて、プログラムさえやっていけばよい」。そう気付いた時、大阪に来て一年半がたっていました。そしてダルクに通いやすいようにダルクの近所に再び住居をかえました。しばらくして僕は毎日ダルクに通うようになりました。「プログラムだけでいい」。このたったひと言を理解するまでに、たくさんの覚せい剤や酒、そして家族と自分自身の涙が必要でした。巻き添えにした結果、ダルクからいなくなった仲間もいます。妻、ダルクのスタッフ、周りの人たちはこんな僕に愛想を尽かさず、本当によく付き合ってくれたと思います。毎日ダルクに来るようになってから1,2ヶ月後、いつの間にか薬は止まっていました。今もまだ、使わずにすんでいます。酒も飲んでいないので、体のほうもだいぶ良くなってきました。それとは別に、今までボケていて見過ごしてきた問題も浮かび上がってきます。しかしそれも、ダルクのスタッフ、仲間のアドバイス、そしてクリーンになりつつある頭で確実に解決しています。先ほど、僕のダルクに対する認識について少し触れましたが、今では「なぜダルクがあるのか」「なぜ自分はダルクにいるのか」、少しずつですが自分なりに理解をしているつもりです。毎日、ダルクで仲間たちと楽しく気楽にやっています。無計画という意味ではなく、「先のことを考えず今日を楽しく過ごすことが大事」、最近よくこう思います。ダルクで仲間といるとそれができます。うれしく思っています。ダルクが僕の居場所です。

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